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▼東海林正志氏の戦争体験 5

 〜見捨てられた義勇隊開拓団〜
 
 昭和18年以後、義勇隊開拓団に入植した方々は、関東軍の戦略上の一方的な意図により、北満の孫呉北東の国境周辺と、東満の虎頭、虎林の国境周辺と、東寧の国境周辺に入植させられたのです。
 孫呉駅より北東92キロの満ソ国境に十数キロの孫克県に入植した大日記義勇隊開拓団は、昭和20年8月九日、現地人の服装をした特務機関の数人が草っ原を掻き分けて団本部に慌しく駆け込み「ソ連軍が国境を越えて侵入してきた、もう時間がない、すぐ脱出するように」と告げるとすぐ、身の危険を感じているのか足早に出て行く。
 この開拓団も、兵役で団員が次々と召集されて残った団員は十数名と、ご主人が召集で団を去り残された奥さんたちで、緊急に団員と家族を集め、脱出することになり、この団の地域内に農業をしていた現地人を平等に取り扱い、彼らと共に開拓団を建設することにしていたので、馬車十数台と現地人十数名の同意を得て、脱出は、関東軍が橋を爆破して去ったので、河を渡り、夜中も休むことなく進み、二日目に孫呉義勇隊訓練所のところで、運良く軍のトラックが通り、そのトラックに婦女子を乗せてもらい、南孫呉駅の南下する最終列車に間に合い南下します。
 孫呉街に到着した団員たちは、県公署に集合を命じられ、赤紙なしの応召者として、孫呉の部隊が陣取る陣地に配属され、新兵さんの二等兵で否応無しに戦場で戦うことになります。

 炎天下にタコ壷掘りをさせられ、ソ連軍の戦車に包囲され、飛行機の低空爆撃で多数の死傷者を出し、壊滅的な打撃を受けて、包囲網をくぐり抜け脱出した団員がおりました。八月二十八日に敗戦を知ったのです。
 その後捕虜としてシベリヤに連行され、山林の伐採に狩り出され、飢えと寒さで仲間の三分の一が帰らぬ人となりました。シベリヤで生き残った仲間は、昭和23年の夏頃までに、日本に帰国しております。私たちの天ケ原義勇隊開拓団でも、日本が敗戦になったことは、何処からも知らせが無く、現地人の口込みでソ連軍が北安街に着たとの情報で、日本の敗戦は間違い無いと思うようになりました。私たちの入った入植地は、無住地帯の原っぱで、匪賊の通り道で、現地人もこの地帯を通るのを恐れていました
 関東軍は、酷いじゃありませんか、俺たち、第3次義勇隊を満ソ国境まで連れてきてこき使い、ソ連軍が侵入してくると、置き去りにして、お前たちは勝手に何処へでも、逃げて行けとは、良心の一欠けらも無い、無慈悲な仕打ちではないでしょうか?

2006/02/26 08:00 (C) さがえ九条の会
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