▼東海林正志氏の戦争体験 82006/03/27 09:03 (C) さがえ九条の会
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千数百人が乗せられた十六輌連結の列車が日本に引き上げる事になっていた。ところがその列車は南下せず、東に向かっておりました。
そして着いたところは、日本ではなく北満の果ての鶴岡炭鉱でした。昭和21年9月半ば過ぎでした。鶴岡の北東は満ソ国境まで延々と森林地帯が続いていた。
ここで昭和28年まで約七年間、坑内の石炭掘りに、否応なしに働くことになります。
私たち独身の通興組三十名は上水道の水源地の導水菅の補修工事が終わり、その後市街の地下二メートルに埋設されている上水道菅補修の穴掘りをしていた。
水源地に行く道路の左側約六百メートルのところに終戦前、煉瓦作り集落があり、そこには関東軍が一個大隊約三百人が駐留していたと中国人が教えてくれた。
市街の外れの右側に細長い板張りの長屋みたいな建て屋が二軒あり、その真中が通路になっていた。通路の両側の長屋には1メートルぐらいの高さから透かしのガラス戸がはめられていた。
二坪ぐらいの土間があり、そこに長方形のテーブルと椅子がおいてありました。土間の奥は壁で仕切られた部屋で引き戸がついていた。土間を見ると人の住んでいる気配がなく、蜘蛛の巣が垂れ下がり空き家が目立っていた。私たちの中に中国の各地を転戦してきた、三十歳近い元軍曹の古年兵がおり、彼は、ここは元関東軍の慰安所のようだと話した。
私たちもそうかなと注意深く見ていると、隣の土間の椅子に座ってこちらをじっと見ている中国の紺の長い服を着た女性のいること気づくのです。その女性は青白くどことなく元気のなさそうな顔をしておりましたが、眉毛が濃く目もぱっちりしてふくよかな丸顔で均整の取れた品のある表情をしておりました。中国人にしては何となく垢抜けしているので、もしかしたら朝鮮人ではないかと思った。
もう戦争が終わって1年一カ月過ぎているのに、故郷の朝鮮に帰ることが出来ず、慰安所におるのですから、関東軍が置き去りにしていったとしか考えられません。この慰安所にはまだ数人残っていました。私たちは、ぼろほろの服をまとった敗残兵が浮浪者のような身なりをしていたので、中国語の少しできる仲間もおりましたが、恥ずかしくて、何も話できませんでした。慰安婦の方も私たちをどんな気持ちで見ておったのでしょうか?
慰安婦たちは、日本に行けば、よい仕事があって、給料もよけいにもらえると、騙して、日本ではなく北満の果てに性の奴隷として強制的に連れてこられたのです。
日本の自民党政府は、まだ従軍慰安婦の問題では裁判でも争われておりますが、まだその責任を認めておりません。