▼畑谷城跡(はたやじょうあと)2008/05/25 00:04 (C) 「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
▼山城の遠景山形城から真西に16キロ、白鷹丘陵の深い山の中、畑谷と簗沢の小さな盆地の間に立つ館山が城の跡。 館山山頂は標高549メートル。 畑谷から見ると、高さ70メートルほどの低い丘ですが、簗沢から見ると170メートルの高低差があり、かなり高い山となります。 2008/06/24 23:36
▼畑谷城趾より山形城を望む山頂のわずかな平地が主郭。 遥か東に、義光のいる山形城を望むことができます。 戦いを報せるのろしを上げれば、山形の城からも見えたことでしょう。 主君義光の命令は「城を捨てて山形に戻れ」 命を無駄にするなとの主君の想いに感謝しながらも、江口五兵衛はこれを断わり、一族と家来わずか350人で立てこもりました。 直江の「開城すれば、厚遇する」の声掛けにも、断固拒否したという記録が残されています。 2008/06/24 23:38
▼国の境を守る要塞2008/06/24 23:45
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義光は、置賜・下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、家臣である江口五兵衛を配置して置賜との境を守らせていました。
江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任にあたりました。
直江軍は主力約2万を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫りました。
旧暦の9月13日早朝、江口氏は手勢を指揮して迎え撃ちましたが、約二時(4時間ぐらい)の戦いで敗れて自刃して落城しました。
直江兼続は撫で斬りを命じて500個余の首を取ったと手紙で伝えています。
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