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▼史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊

史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊/
史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊

 [はじめに]
 中世日本文学の権威、木藤才蔵博士から、平成17年秋山形市に貴重な写本が寄贈された。最上義光が注を書き入れた『連歌新式』である。
 博士は、岩波古典大系『神皇正統記・増鏡』『連歌論集・俳論集』を担当なさって令名高く。また新潮日本古典集成『徒然草』は、名注釈書として広く江湖に迎えられている。周知のごとく博士は、連歌史研究において先人未到の高峰に達せられ、その業績によって昭和49年に学士院賞を受賞なされた。たまたま同じ時の受賞者として、山形市名誉市民石坂公成博士がおられる。授与式の日、木藤・石両博士は一緒に天皇に御親講なされたのであった。
 最上義光を高く評価しておられる博士は、平成17年秋、本写本を義光の故郷山形市に寄付してくださったのである。

 [体裁]
 縦27.7cm。横21.1cm。袋綴じ。表紙柿渋塗り。題簽なく、外題を欠く。内題は、第1丁表第1行目に「連歌新式」とあり、上部に[最上院蔵書]の縦型黒印を捺す。本文紙数69枚。各丁表裏とも10行。
漢字平仮名交じり、「ハ・ミ」などの少数の片仮名を交える。一行の字数は不定。朱書きき末尾に「巴」を記し、里村紹巴記入であることを示す。巻末67〜9丁に、義光の奥書及び、これに応ずる紹巴の奥書がある。(写真)



 [成立年代]
 義光奥書の日付「文祿五年七月朔日」と、紹巴奥書の日付「文祿五年初秋中旬」とにより、文祿5年(1596、改元慶長1)7月の成立。
 当時の豊臣秀次事件に連座して近江流謫の身であった。義光の次女駒姫(おいまの方)を秀次の侍妾としていたため一時閉門謹慎を命じられていたが、この時点では宥されていた。したがって、義光は秀吉から罪人として退けられた紹巴と、懇ろに音信を通じていたことになる。時に義光51歳、紹巴73歳であった。
 木藤博士は、本写本は江戸時代初期、寛永に溯る可能性ありと見ておられる。[最上院蔵書]の印は、寒河江慈恩寺の最上院に伝来したことを示す。北畠教爾氏によれば、明治の廃仏棄釈以後の流出と推定されるという。
 
 [内容]
 木藤博士著『連歌新式の研究』から引用させていただく。
 「義光が在京中に諸処の会席に臨んで式目の運用に関して不審に思ったことを、その場の先達に質問したり、あるいは宗匠のさばき方その他から見当をつけたりしたことを、そのつど書き留めておいて、のちにこれを整理したもののようである。……紹巴の書き入れは僅かで、秘事大事に属することは奥書にも記されているように口伝に依っているようである」(頁152)
義光の奥書によれば、「毎座不審の儀ども八百ヶ条」を筆記したとあるが、現に見られる本写本は488ヶ条である。伝来の間に300余ヶ条が脱落したのであろう。

 [本書の意義]
 既確認の義光の連歌33巻は、『最上義光連歌集』全3集として刊行された。その質的面については、山形大学教授の名子喜久雄氏が考察を加えておられるが、本書によって義光の文学的教養、連歌に対する熱意などが、さらに詳細に明らかになることが期待され、義光の人物研究にとって貴重な史料である。
 義光個人の問題を離れても大きな意義がある。
 桃山時代の連歌界で式目がいかに受容され、機能していたか、その実態と限界。連歌が陥っていた閉塞状態の解明。そこから脱却しようとする努力など、俳諧文学発生期の様相を明らかにする上でも、本書は益するところがあるように考えられる。
 また、戦国時代を切り抜けた遠国大名が文化形成に参与した事例としても、研究の好対象となるだろう。
 他の写本が紹介されていない現在、本書はいわば天下の孤本である。上記のごとく大きな意義を有するものだけに、本書の公刊が期待されるところである。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより�13」より

2008/08/30 11:18 (C) 最上義光歴史館
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