▼最上家をめぐる人々♯11 【最上義康/もがみよしやす】2008/10/02 10:04 (C) 最上義光歴史館
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▼最上家をめぐる人々♯11 【最上義康/もがみよしやす】2008/10/02 10:04 (C) 最上義光歴史館
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「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」
慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。
最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。
荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。
同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。
長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。
「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」
うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。
これは『奥羽永慶軍記』の記述である。
まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。
一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。
政宗は、最上への援軍派遣を了承した。
馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗 二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり)
かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。
政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。
政宗からの返書は、16日付け。
「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」
義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。
だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。
長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。
9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。
同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。
大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。
側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。
慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。
完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。
勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。
徳川の時代が始まったのである。
義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。
4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。
この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。
熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。
嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」
そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。
いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。
それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。
一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、
「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。
義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。
義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。
襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。
義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。
義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。
義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。
義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。
慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。
「一夜とは霞や隔て今日の春 義康
雪残りつつしののめの空 玄仍」
広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。
山の端や更けても霧の晴れざらん
鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす
慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。
平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。
■■片桐繁雄著