▼最上家をめぐる人々♯12 【最上駿河守家親/もがみするがのかみいえちか】2008/11/02 08:39 (C) 最上義光歴史館
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第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。
天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと『最上家譜』には記されている。
冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。
夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、
壁門金殿、瓦溝めぐる、
江天暁に到りて、尺をみたし難し、
ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」
学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。『徳川実記』では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。
■■片桐繁雄著