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▼山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【はじめに】

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【はじめに】

 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。
 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。
 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。
 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。
 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。
 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。
■執筆:小野末三

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2008/11/08 17:48 (C) 最上義光歴史館
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