▼山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【一 義俊遺領を継ぐ】(1)2009/01/11 20:30 (C) 最上義光歴史館
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【一 義俊遺領を継ぐ】(1)
元和三年(1617)三月六日、駿河守家親は三十六歳の生涯を閉じた。その死因と場所などについては諸説紛々としているが、巷に流れているような、奇異に満ちた死因ではなかったようだ。しかし、諸史に書き伝えられてきた死因などを取り上げ、これを真相だとする次のような記事が、依然として一人歩きしているのが現状である。
「三月五日、家親は鷹狩りに出て一日を楽しみ帰ったが、その夜俄かに死亡したので、最上家の騒ぎは非常なものであった。その死因については文書により数々のことを伝えている。第一江戸に於いて卒去したもの、第二に鷹狩りの日楯岡甲斐守邸で食事をした際、毒を盛られた、第三その夜侍女に刺されて死亡したなどである。江戸で卒去したという説は全然虚構であり、楯岡甲斐守の毒殺というのも事情に適しないのであり、侍女から刺殺されたという説は最も真相と思われる」 (『山形の歴史』川崎浩良) [注1]として、侍女刺殺説を取り上げ、家親の死因としている。
しかし、この先人達の説に反論する訳ではないが、確たる説をもとに事実として証明せねば、何事も成り立たないのである。当時の家親の実際の行動を、幾分でも掌握しない限りは、これが事実だと言い切ることはできないのである。ここに、元和三年(1617)初頭から死の三月に至る間の、家親とその近習とされる人物の動きを示す、一人の人物の日記から、家親の死を究明していきたい。
天正十年(1582)三十四歳のとき、武蔵野国足立郡芝郷(現埼玉県川口市)の長徳寺の住持となった龍派禅珠(号は寒松、以下寒松を使用する)は、慶長七年(1602)徳川家康の命により、足利学校の痒主となった名僧である[注2]。その書き残した文書記録類の[寒松稿]と[日暦]には、将軍を始めとして多くの人物が登場しているが、そこには、家親との交遊関係を示す多くの記事が書き残されている。その中から、家親の死に関わる時期の頃の記事を引用する。(注、原文からは関係箇所のみを抽出した)
(イ)□□□(正月大ヵ) □□(朔日ヵ)[ ]立春正月節、十日、晴、登城、自城帰時往最駿州第、昨夜使者口上齟齬故空帰、
(江戸城にて年筮を献じての帰り、最上邸に寄る。昨夜は使者の口上に食い違いがあり、空しく帰った)
(ロ)(一月)十三日、於駿州晨炊、
(最上邸にて朝食をとる)
(ハ)(一月)十六日、於道閑晩炊、
(家親の近習の道閑のところで夜食をとる)
(ニ)(一月十七日) 題屏風画十二首 最上駿州求之
(家親の求めに応じて、最上邸にて屏風画に十二首の漢詩を書き入れる。※漢詩は省略する)
梅月 元和三年丁巳正月十七日書于江城客簷下
(ホ)三月小、二日、道閑贈餠酒来、
(道閑より餠と酒を贈られた)
この寒松の記録から、家親が元和三年(1617)の正月は江戸に在ったことが判り、また近習の道閑(寿庵)[注3]が、三月二日にも寒松と接触していたことは、家親も江戸に居たという証しにもなるのではないか。そして、三月十二日、寒松は江戸より足利への帰路、蕨宿にて家親の病が気にかかり、友人の医師を江戸に遣わしたことを伝えている。そして四月廿日、寒松は足利にて家親の死の報に接した。
また家親が病に倒れ、それに対して将軍秀忠よりの能々養生せよとの、家親宛の書状[注4]が残されていることから、寒松の記録とも併せ見ると、家親が不審な形で世を去ったとは考えられないのである。
五月十六日、寒松は「雨、最上源五郎飛脚来、寿庵・侶庵文相添」と、寿庵と侶庵の文をも添えた、義俊からの飛脚があったことを伝えている。それは幕府が義俊の襲封を認めた七日後のことであった。これが代替わりした最上家当主としての、義俊にとっては寒松との最初の接触であり、そこには襲封の挨拶をも含め、父同様に最上家との厚誼を願望する、義俊の姿を垣間見ることができる。そして、十月十七日、足利より江戸に入った寒松は、「於最上源五郎殿晩炊、秉燭而帰」と、最上邸に義俊を訪ね晩食を共にした。これが義俊の山形藩主として、寒松との初めての出会いであった。義俊にしてみれば、将軍を初め幕閣の要人達とも親交のある老師と、父同様に誼を通じることが如何に大事なのかは、十分に理解していたことであろう。そして、その付き合いは、改易後のある時期まで続いていくのである。
元和三巳五ノ三、十二歳節家督、其節被為召被仰出候ハ、祖父・父無二之忠節ヲ尽候事故、最上家大切ヲ被思召候、夫ニ付今程十二才候得者、国々之仕置無覚束、依之家人共上下和順候而、源五郎ヲ守立、国家ノ政道如先規申付候様ニト被仰付、賜御条目[注5]
元和三年(1617)五月三日、義俊は父の死から二ヶ月後に家督を継いだ。祖父義光そして家親と二代に渡って、徳川との密接なる関係を有していたにせよ、この十二才の少年に奥羽の大藩を委ねた幕府の真意は奈辺にあったのか。
九日、幕府は七ヶ条条の項目を示した「条書」[注6]を与え、義俊の襲封を許した。その内容とは義光・家親時代の仕置の続行、家中縁組の区分、公事(訴訟)の判断、前代任命の諸奉行に対する措置などに関するものであった。これらに関しては、山形藩を幕府の管理下に置く厳しい措置であるとか、また跡式の許可が下りるまで、二ヶ月の期間を要したことから、義俊家督への不信感を思わせる向きもあったろうが、それでも義俊への本領安堵が為されたことは、この時点に於いては、藩全体に共通した喜びをもたらしたことであろう。
この義俊襲封に際して、将軍への御目見は果たして得たのであろうか。重臣の岩屋能登への二月廿一日付の書状(家信の署名)に、「今度、上様御目見へ申候為御祝儀、広末并銀子給候、祝着ニ存候」[注7]とあることから、襲封から近い時期に、お目見を果たしたことは間違いないであろう。
小倉藩主細川忠興が子息の忠利宛書状によれば、「(十一月廿九日)、景勝・佐竹・正宗于今在江戸、南部信濃も参上候由候、来年西国衆在江戸、云々」[注8]として、この年の東北大名達の江戸在勤を伝えている。当時の大名達の江戸在勤の仕分けについては、大体に於いては東西に大きく区分され、交互に在勤していたようで、新たに家督を継いだ義俊ではあったが、この年の山形下向は果たせなかったであろう。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『山形の歴史』(川崎浩良)
この先人の唱えた家親変死説が、今やすっかり定着した感がある。それは、この説に異議を唱えることも無い程に、最上家全体を含めた調査研究が、遅々として進んでいないことを、端的に表しているのではなかろうか。
2、[寒松史料](『川口市史・近世資料編3』)昭和58年
龍派禅珠和尚(寒松)が書き残した文書類を総称する。
[寒松稿]は、純然たる文学としての詩文などを収めたもので、そこには五山の禅僧との詩会を催しての交遊や、また武家や諸国の医師たちとの社交の手段として、詩文を作成した。
[日暦]は、いわば日記の類いである。その内容は多彩を極め、寒松個人の足跡から、将軍から幕閣の要人を始めとして、武家との交際の実態を書き残している。家親の記事も多く、山形駿州・最上駿州・最駿・駿州・最駿州の名で登場している。また寒松は諸学問・医療面にも通じ、また会得した卜筮は特に重宝がられた。寛永十三年(1636)没。
3、道閑(また寿庵とも)は姓を吉原という。最上義光分限帳に「五十石 蔵米 谷(吉)原道閑」とある人物であろう。寒松の史料にも度々登場しており、「相州人道閑一雲……而精医師、自名書屋曰寿庵」とあり、家親の主治医また学問の師として、間近かに仕えていたようだ。家親、また義俊に近侍していたことが、残された書状により判る。
4、[最上家譜](『山形市史・史料編1』)
同(元和)三巳病気之節、賜御書
所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備前守可申候也、
三月 秀忠(黒印)
最上駿河守とのへ
5、[注4]に同じ
6、[注4]に同じ
7、[『秋田藩家蔵文書』所収文書] (『山形市史・史料編1』)
8、[細川家史料](『大日本古記録』)