▼最上家臣余録 【鮭延秀綱 (3)】2010/03/14 16:33 (C) 最上義光歴史館
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【鮭延秀綱 (3)】
鮭延が、永禄の中頃から大宝寺武藤氏の強い影響力の元にいた事は前述した。その経歴から考えても、武藤氏及び庄内の国人と鮭延氏の間には、ある程度強い結びつきがあったようだ。義光が庄内へと勢力を伸張させようと目論んだ天正十(1582)年から天正十一(1583)年にかけた一連の軍事行動の準備段階として、鮭延は、庄内の有力国人衆へ対して調略を仕掛けている。下に挙げた書状は、鮭延が来次氏等に対して最上方に翻意するように勧めていた事が窺える書状である。
自鮭延殿御音信被申上候間、御使今朝其表へ相送申候つる、
定而参着可申哉、野拙処江も書状ヲ差越被申候、為可入御覧差挙
申候、何共不聞得文書ニて候、以分別可致返章事難弁候間、
當座之挨拶迄ニ而令返酬候、如何様近日中以参上、
心事可申述候間、令省略候、恐々謹言、
菊月廿一日 来次
氏秀(花押影)
砂越次郎殿
御宿所 (注16)
結果として、情勢は最上方優位に展開した。
如翰計之、未令啓書候處ニ、急度之御到來祝着之至候、
随而((這カ))定般鮭延へ、從庄中致亂入候条、
彼口爲引立之勧騎之支度候キ、然處ニ白岩八郎四郎、
大寳寺方へ以縁約之首尾、甚別心候条、爲退治向彼地令發向、
先々属本意之形候、至春中者、清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、
雖無申迄候、於時者、爲引汲三庄境目へ可被責入事肝要候、
毎事砂宗入道方へ及細書候条、不能腐書面候、恐々謹言、
霜月廿五日 源義光(花押)
謹上 下國殿 (注17)
上の書状は義光が武藤氏を挟撃する為に下国(秋田)愛季と申し合わせた文書であるが、砂越氏が最上方についたと解釈できる記述が見られる。恐らく来次氏と共に寝返ったのであろう。どうやら、鮭延は調略を成功させたようだ。
また、義光は、天正末〜慶長初期に平鹿・雄勝郡を領する小野寺氏へ対して幾度か軍勢を催しているが、そこでも鮭延秀綱は外交手腕を発揮したようだ。根本となる書状史料には欠けるが、
湯沢落城の事 (注18)
(前略) 鮭登思ひけるは、「関口も我に中違うて有けれども、
何とぞして彼を語らひ味方となさば、山北を攻るに心安かるべし。」
と、密に飛檄を以て是を語らふ。折ふし春道も小野寺に野心を
挟めば何の異論もなく、一味をぞしたりける。夫より春道が
計らひとして、西馬内肥前守茂道・山田民部少輔高道・
柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替りして最上に組す。
そもそも、鮭延氏(佐々木氏)は前述した通り小野寺氏の被官であった時期が長く、最上地域の他の領主に比べ小野寺氏と仙北国人衆への外交的繋がりは比べ物にならないほど強いものであった。義光は仙北の国人衆に対して揺さぶりをかけ、小野寺氏との関係において大方主導権を握っているが、鮭延も何らかの形でその調略戦に関与していたと考えるのが自然であろう。
ともあれ、鮭延氏は最上義光の圧迫に屈してその家臣となったが、そこには、鮭延秀綱が果たすであろう役割に対する大きな期待感が最上義光の中に存在していたのである。事実、最上家参入直後における鮭延の立場は既に比較的高いものであった。前述の最上義光書状においても「清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、」とあるように、最上地域における義光与党の重鎮的立場にいた清水氏と併記される扱いをうけている。まさにこれは、最上地域において清水氏に匹敵する勢力、あるいは立場を最上義光が認めていた証左となろう。また、天正十五年三月十三日発給とみられる瀧沢主膳正維助書状(注19)においても、秀綱は義光の腹心であり最上家中の中核にほど近い位置にいたと推測される志村伊豆守とほぼ同格に扱われている。最上家中において、秀綱は志村伊豆守と同等に扱われる立場を既に天正十五年の時点で築いていた事が見て取れるのだ。
前記の通り庄内の国人衆や雄勝郡の国人領主を最上方につける事に成功した折衝手腕はもちろん、『奥羽永慶軍記』等の軍記物によれば、仙北侵攻時には一手の主将として小野寺勢を打ち破る等、槍働きにおいても最上家の勢力伸長に寄与したようである。もちろんその史料的性質から多少の誇張を含む記述と見るべきであろうが、ある程度評価には値するものであろう。義光の期待に、鮭延は存分に応える働きをしたようである。
<続>
(注16) 「筆濃余里所収文書」 十月二十一日付来次氏秀書状(『山形県史 史料編1』)
(注17) 「湊文書」 十一月二十五日付最上義光書状(『山形県史 史料編1』)
(注18) 『復刻 奥羽永慶軍記』(無明舎出版 2005)
(注19) 「筆濃余里所収文書」 三月十三日付瀧澤主膳正書状(『山形県史 史料編1』)
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