▼山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【五 三河領分五千石の地】2010/04/07 11:58 (C) 最上義光歴史館
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【五 三河領分五千石の地】
寛永八年(1631)十一月、源五郎義俊は失意の内にその生涯を閉じた。そして、嫡子義智は幼年にして本領を継げず、三河領分は没収され近江領五千石最上氏の誕生となった。義俊代の近江領分については、その領分とも考えられる五千石が、引き続き旗本最上氏に受け継がれたことから、その概要を知ることができる。しかし、三河領分については、それらを伝える関係史資料には全く恵まれずに来てしまった。
その一つの原因として考えるならば、山形の先人達が「三河五千石は遂に不払いに終わってしまった」などと無視してきたことから、これが現在まで引き継がれて来ているようだ。その最近の一例としては、『西川町史・上』(平8年)は、「最上義俊母子は近江で五千石を与えられ、蒲生郡大森に居住した。ほかに三河において五千石、合わせて一万石が与えられるはずであったが、義俊の没する寛永八年まで、またその没後も三河での給地は履行されていない」と、三河の地は空手形に終わってしまったと述べている。このように山形県内の公史でさえも、事実に反した記述となっているのが現状である。
伝来の地を離れ、僅かな封地を宛行われた最上家が、十年に満たない領有期間であったことからか、その存在すら忘れ去られてしまったようだ。それは最上家が去った後の領主達の移り変わりの中で、関係資料も何時の間にか四散していったことであろう。それでも幸いなことに、僅かながらも加茂郡梅坪村(現愛知県豊田市梅坪)の一ケ村に、最上領の一部であったことを示す、次のような貴重な記録が残されていた。
「梅坪村高の由来 天和元年」
梅坪村
高弐千弐百弐拾弐石弐斗五升弐合、右百年以前慶長拾四年酉ノ年洪水ニ而大川瀬違、田地之内押切大川筋となり、田地多クつふれ川原と成、それより永川荒地と成申候、其後又々山田之内用水出水とまり荒地所々多ク有之候、それより高千百石余永川無田荒地ニ成申候、只今千百石余新田共有反百性持高、本領分と申ハ七拾年以前ニ元和八年梅坪村分郷と成り、最上源五郎様へ高六百三拾七石余渡り申候、其時挙御領主三宅大膳正様御領知之内梅坪村庄屋彦惣・喜右衛門両人より水帳之内書わけ、善右衛門と申を最上領之庄屋と立テ、其外脇八人付申候、又其後寛永拾年酉ノ年岡崎御城主本多伊勢守様御領分と罷成申候、本領分と申事ハ御代官鳥山牛助様御之分最上領之分前より御支配被遊候間本領と御名付披遊候、
(注、長文のため関係箇所のみを抜粋した)
「梅坪村年貢免状」
末年免相之事
高六百六拾七六斗六升八合ハ
[ ]高之内 梅ケ坪村
一 三百三拾三石八斗弐升ハ定免[ ]
[ ]
免高
一 三百三拾三石八斗四斗八合ハ弐ツ[ ]究
候、惣百性立合、無損徳様[ ]閏十月廿日前
ニ急鹿骨済[ ]也、
[ ](役人名)
[ ](役人名)
寛永八年
九月十三日
庄屋百性中とのへ
梅ケ坪村申之歳御物成下札
一 高六百三拾七石六斗六升八合 本高
内
高百七捨石七斗壱升四合 当日損
残高四百六拾六石九斗五升四合
内
高四百拾五石八斗三升九合 田方
此取七拾四石八斗五升壱合 壱ツ八分
高五拾壱石壱斗壱升五合 畑方
此取五石六斗弐升弐合六夕 壱ツ壱分
取合八捨石四斗七升三合六夕
右之通定所也、庄屋小百性不残寄合、そんとく無之様
ニ割、皆済可有候、当日損ニ付、当冬究免相之内、御
そん所ヲ引、下札如此、
鳥 牛助(印)
寛永九年申極月十八日 鈴 八右(印)
梅ケ坪村
庄 や
小百性中
当時の梅坪村は、現在の愛知県豊田市の内にあった。慶長十四年(1609)に近くを流れる矢作川の大洪水により、田地の多くが潰れ河原となり「永川荒地」となった。最上家領有後にも氾濫があり、絶えず矢作川の流れに左右されていた耕地であったようだ。元和八年(1622)当時の梅坪村は、衣領(三宅康盛)と岡崎領(本多忠利)の相給となっていた。この内の衣領六百余石が、最上領として成立したのであった。その年貢免状を見ても約半分が「定免」になっている。これは荒地のために土地の年貢の定量を決め、年々の豊凶により変化させないことを意味している。このように、三河五千石の内の一ケ村だけではあるが、不安定な土地であったことが分かる。
このように、梅坪村の六百余石は、最上家にとっては歓迎すべき耕地ではなかったであろう。また先述した「村高の由来」にも挙げてはいるが、「…本領分と申事ハ御代官鳥山牛助様御支配之分、最上領分前より御支配被遊候間、云々」とあるように、幕府代官の管轄下にあったのではないかと、主体性を欠いた最上領分の成立を見ることができる。
この「年貢免状」の発給は義俊の死の二ケ月前のことである。また上知後の寛永九年(1632)の「御物成下札」には、はっきりと幕府代官の署名があり、幕領に組み入れられたことが分かる。そして、本多忠利の岡崎領となったのは二年後である。このように、三河からは梅坪村六百余石の領分しか確認できなかったが、幕領・藩領・旗本領と入り交じった三河の地から、僅かな期間でしかなかった最上領の痕跡を見いだすことは、簡単なことではない。思うに、この梅坪村の「分郷」という村を分ける形での、六百余石の最上領の成立は、村の行政にも大きな影響を及ぼしたであろう。残りの四千余石の所領地の配分形態も、また数ケ村に渡る「分郷」という形で、三河領分五千石の成立を見たのではないかと推測したい。これは近江領分にも相通じるものではなかったろうか。壱万石の大名とは名ばかりの、幕府代官の関与する異常な領国支配であったとしか思われないのである。
(付記)
この項は、『豊田市史・近世1』・『豊田市史・資料編上』などを参考にしてまとめたものである。今まで三河領分については、それらを示す確たる資料等にも恵まれずにいた。しかし、昭和五十年代には既に地元の市史が取上げていたのである。編者は最上関連の史料等を解明しながら、併せて義光以後の最上家の変貌を語っている。しかし、三河の最上領については、これ以上に詳しく知り得る手掛かりはつかめないと、根本史料の稀薄さを指摘している。梅坪村六百余石は、三河全体の一割強にしか過ぎない。残りの四千三百余石の村々は何処に在ったのだろう。
■執筆:小野末三
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