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▼最上家臣余録 【鮭延秀綱 (5)】

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (5)】


   3、慶長〜元和元年における鮭延秀綱の立場

 「奥羽の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦と、それに付随した一連の庄内奪回戦・仙北救援において、鮭延秀綱は目覚しい活躍を挙げた。最上領内深く上杉軍に侵攻され、山形城が危機に陥った事態にあっては長谷堂城に援軍として赴き、上杉軍の侵攻を阻んだ。長谷堂における鮭延の活躍は、様々な書籍ですでに詳らかにされており、ここで改めて触れることはしないが、軍記物史料が根本史料となりがちなことには十分留意せねばならないだろう。

 上杉撤退後に発生した、最上家による小野寺氏へ対する反攻においては、湯沢満茂の麾下として先陣を務めたとされる(注34)が、根本史料がなく記述に全幅の信頼を置くことはできない。『永慶軍記』では、仙北出陣を十月半ばの事としており、長谷堂合戦が十月初旬に終息した事を勘案すれば、慶長五年に鮭延が仙北へ出陣し、作戦行動を遂行できたかどうかは疑問だ。『永慶軍記』の記述は、文禄期〜慶長初期、または慶長六年に行われた最上と小野寺の交戦を混同している可能性があると見るべきだろう。

 翌年の庄内攻めにおいては、北口の大将として志村伊豆守と共にその任にあたり、由利郡国人衆の仁賀保擧誠と合力して菅野城を落とすなど庄内攻略に尽力した(注35)。ともあれ、慶長五・六年において秀綱はまさに大車輪の槍働きをしている。

 しかし、槍働き以上に、関ヶ原以後の鮭延秀綱を論じる上で最も留意すべきは、慶長末年から元和元年にかけて起こった最上家家督相続に関連する騒動であると考えられる。

 その当時、発給されたと考えられる二つの書状を挙げる。

   尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、うつしを申て、
   其地へ被遣候、これを御手前にをかせられ申へく候由御意候、已上、

   大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、
   其段令披露候ヘハ、不及是非候、先々其分ニ被成候而、
   可被指置候由、上意ニ候、左候へ者、秋田(より)の書面ニ、
   与左衛門尉下人にてハ無之候、頼候而大坂へ罷立候由之條、
   是非此方之者ニハ無之事一定ニ候条、依之重而右之使にて候、
   尤慥なる使を可被遣之由、被仰出候様子之義、具ニ此使者へ申渡候、
   秋田人之義、委口上ニ可被仰候由、御意候、書状をハ大かた申宣候、
   恐々謹言、
              日野備中守
   十一月十二日       光(花押影)
              里見薩摩守
                  景(花押影)
              安食太和守
                  光(花押影)
              鮭延備前守
                  直(花押影)
       本豊州様
           御報人々御中 (注36)
 

   谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
   條々承候、秋田へ之御理共無残所候、此上之義、
   人頭共相捨候外無之候、其付而、理之様子共書面難申候條、
   具彼高寺新左衛門方ニ申渡候、能々被聞召届、御尤ニ候、恐々謹言、
              東薩摩守
    十一月廿八日       景佐(花押影)
              安太和守
                  光(花押影)
              鮭越前守 
       本城豊州様     愛(花押影)
            御報 (注37)

 大坂の陣において落ち延びてきた者共の処遇について秋田とやり取りしたことについて、その経過を本城満茂に報告した書状であるが、注目する点は、その発給者と受給者の構成がいかにして形作られたかということであろう。慶長末年から元和元年における最上家中の動静をふりかえってみたい。

 事の発端は慶長八年、最上義光の嫡子義康が庄内において殺害された時にさかのぼる。義康は、義光により嫡子の座を追われて高野山へと追放されたが、高野山へ向かう道中庄内にて殺害された。代わって後嗣と定められた家親は小姓として徳川家康の元に居た時期があり、徳川家との繋がりを重視した結果、かかる事態となったものであろう。一説には、豊臣の恩顧を重視した一派が、義康を擁して義光を隠居させようとする動きが見られたため、機先を制して義光が義康を廃嫡したともされる(注38)。義康廃嫡は、最上家内の親豊臣派と親徳川派との相克が表層化したものととらえる事ができよう。

 この義康廃嫡・殺害事件は最上家中に大きな亀裂を残す結果となった。その後しばらく、その亀裂は新体制への適応、庄内・由利の新領土経営の影に隠れてなりを潜めていたが、慶長十九年一月に最上義光が没し、家親が家督を相続したのを契機として親豊臣派と親徳川派の対立がふたたび表面化した。家親の家督相続からわずか半年足らず、六月に起こった田川郡添川館主一栗兵部の乱がそれである。

 一栗兵部は、「家親の家督相続は最上家を危うくする元であり、その異母弟清水光氏(義親)を擁立すべき」との考えの元、その意を酒田城主志村光惟(光安の子)に諮った。光惟の返答は定かではないが、その後鶴岡城主新関因幡守が自邸に光惟らを招いたことで一栗兵部は疑心暗鬼に陥り、光惟・下対馬守らを襲撃して殺害してしまった。新関因幡守によってすぐに一栗兵部は討たれたものの、その後ろ盾として疑いをかけられたのが、かつて豊臣秀吉の元で人質生活を送り、秀頼の近侍を勤めた経験のある(注39)清水光氏であった。

 時あたかも大坂の役直前で、最上家にも動員命令が下ってきており、家親は江戸留守居役を家康から命じられていた。自らが出陣しているそのすきに、光氏が大坂方に呼応して反乱を起こす危険性を考慮した家親は、延沢遠江守・日野将監らに清水光氏討伐を命じたとされる。同年十月に両将は清水城を攻め、光氏を自刃に追いこんだというのが慶長十九年に起こった一連の騒動のアウトラインである。

 さて、この騒動時に鮭延秀綱はいかに身を処したのであろうか。事態を静観していたのか、あるいは積極的に家親について活動していたのか確たる史料が無い為判然としないが、その後大阪の役や一栗・清水氏討滅の事後処理を掌握したと見られる重臣として名を連ねている事を考慮すれば、家親派として積極的に運動していたのではなかろうか。

 ともあれ、家中の反家親派を沈黙させた家親にとって家中の立てなおしは急務であった。家親は江戸詰めの機会が多かったゆえに、領国経営の中枢を担う者を登用せねばならなかったが、氏家尾張守・志村伊豆守の両巨頭は既に亡かった。その後継であった氏家左近は家内を統括するのには若く、志村光惟は一栗の反乱で死亡していた。また、最上家における重鎮清水氏は前述の通り排除されたし、本城満茂は由利本城にあって由利郡の統治と佐竹氏との連絡を担っていて最上本家の中枢運営に関わることは難しかった。そこで、上級城持家臣の中で家老級として登用されたのが東根・日野・安食そして鮭延らであったと考えられる。

 さて、元和元年にはこの四人を中核とする家中意思決定集団があったと見られるが、最上家中の序列が上記の書状より垣間見える。家老連から本城満茂への宛名は「本城豊州様」あるいは「本豊州様」だから、鮭延ら4人よりは本城満茂が格上でとして認識されていたことが分かる。本城満茂は、元は最上家親類衆の楯岡氏であり、最上家中で最も多い四万五千石の知行を由利郡にて給されていた。湯沢に在陣(湯沢豊前守と名乗った時期もあった)して仙北地方の経略に尽力した経歴から見ても、最上家臣筆頭の位置にふさわしい人物だったのであろう。「大坂落人之事」や「谷地之者人質」に関わる秋田佐竹氏との折衝を行う際にも、山形家老連・本城満茂が密に連絡を取り合って対応していた事が上記の書状から読み取れる。さらに言えば、この序列は一朝一夕に形成されたものではなく、義光存命中から既に形作られつつあったのだろう。

 ともあれ、鮭延秀綱は、この時点で最上家非親族系家臣の中では最上級に位置し、家親参勤中の留守居として領国経営を担っていたと想定して間違いなかろう。

 その後、最上氏の改易騒動が起こるが、その時点の鮭延の詳細な立場、動向については他稿に譲りたい(注40)。
<続>

(注34) 『復刻 奥羽永慶軍記』など
(注35) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注36) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『山形県史史料編1』)
(注37) 「同」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注38) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注39) 『上山市史』
(注40) 福田千鶴「最上氏の改易について」『日本史研究 361』(日本史研究会 1992)など


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2010/04/07 14:00 (C) 最上義光歴史館
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