▼最上家臣余録 【志村光安 (9)】2010/08/24 16:48 (C) 最上義光歴史館
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【志村光安 (9)】
庄内統治の実情を家老等の持つ権限という切り口で見てきたが、以上確認してきた事実関係から一歩押し進め、仮説とするとしたら以下のようになるであろう。
庄内の各地は志村・新関といった譜代直臣や、新しく直臣層へと取り込んだ下対馬へと与えられた。進藤・原ら家老達は、志村光安ら各城主の配下として庄内の民政・警察権の管轄という実務を取り仕切ってはいたが、最上家内での立場は最上家から直接知行を受けた義光の直臣であった。つまり、庄内は山形から離れてはいたが、支配の中心は最上家直臣層によって行われていたのである。また、城主達も、各々連絡を取り合い、最終的な決定権を所持していたと考えられるがそれはあくまで庄内に限っての事であり、城主・家老それぞれ制限を受けた上で領国支配を行っていたように見うけられる。庄内衆の中でも最大の知行高を持ち、最上家中でも大身の部類に入る志村光安とてこれは例外ではなかった。
また、これらは、最上義光自身の意向が庄内支配へ大きく影響していたことを想起させ、進藤ら中級家臣が実務を遂行している点は、他藩に見られるような中低級家臣の藩政参画のテストケースとも捉えられるのではなかろうか。このような義光のコントロールは、大学堰を始めとした新堰開削と、慶長十六(1613)年から翌十七年にかけて行われた庄内・由利検地に象徴される。
北館大学が義光に願い出て、志村伊豆守などが反対したものの義光がゴーサインを出し始まった新堰普請は、反対した志村が担当する区画の遅れが目立つなど当初進展が捗々しくなかったらしい。そこで北館大学は再び義光に申請し、自らの裁量で工事が進められる事となった。この工事には、庄内・由利全域より人足が徴発された。その割り当ては各々二十石に一人の割合であり(注29)、この普請が最上家内での軍役の一つであること、従って義光主導の元進められたことは明確である。
最上家が庄内・由利を拝領して十年経った後に行われた検地は、一つに幕府による軍役負担の増大、第二に新田等低年貢地の年貢増徴、第三に新田開発による地主層の地位の相対的低下による検地の実施容易化を背景に押し進められたものだった。この検地に奉行として従事したのは、志村や本城といった大身の城主層ではなく、庄内河南は日野備中、河北は進藤但馬、由利は日野・進藤両名の千石前後を知行していた最上直臣達で、さらに請取役(点検役・実質責任者)はいずれも高三百五十~五百石の最上家中堅家臣であり、これら直臣を運用し総指揮をとっていたのは最上義光自身であったのである(注34) 。
<続>
(注34) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」
(『日本海地域史研究 第11輯』日本海地域史研究会 1990、初出は1983)
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