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▼最上義光のこと♯4 【義光の戦いぶり】

最上義光のこと♯4

【義光の戦いぶり】

 戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。
一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである。
 上山が伊達と最上義光の間にあって去就に迷っていたとき、義光はあえて武力に訴えなかった。上山の重臣層が内部分裂を起こして結局最上に従った後は、その地の支配を上山里見家の一族にゆだねている。
 ことは天童家(里見氏か)との対戦でも同様である。天童を中心とした村山北部の勢力は同盟して最上に反抗した。義光は軍勢を差し向けたものの、力づくで殲滅しようとはしなかった。同盟の結束を政略結婚で弱体化し、そのうえで攻撃をしかけ、盟主天童頼澄が奥州へ逃亡するのを見逃したのであった。もし義光が天童家を完全に滅すつもりなら、いともたやすい情況だったにもかかわらず、彼はそれをしなかった。
 天童氏が今なお宮城県内に名族として残っている背後にはこのような歴史事実があつたのである。
 金山、真室川の領主、佐々木典勝が、最上に抵抗を続けていたのを、無駄に殺すなという義光の方針で生き延びて、後日最上義光に帰参して一万千石余の本領を安堵された例もある。
 戦って敗れた寒河江一門や、降伏した上杉軍の将兵に対する扱いの寛大さも驚くほどだ。寒河江肥前は、二万七千石(異説あり)という高禄を与えられた。下次右衛門は、降参後は庄内攻めの先鋒とされて功績を賞され、一万二千石を与えられた。
 慶長六年(1601)に、上杉領だった酒田東禅寺城を、最上軍は大挙して攻撃した。城将川村兵蔵、志田修理亮らは死力を尽くして戦うが、及ばずして降伏する。山形にいた義光は、降伏したものが最上家に仕えるならそれもよし、会津に帰るならそれもよしとした。まことに大らかな扱いだ。両将は、この扱いに感謝しながら素直に上杉家にもどつていく。
 よく知られている白鳥十郎誘殺事件。これなどは、もし戦えば惨憺たる大戦になるところを、トップを討ち取るだけで済ました、という見方をすれば、残酷とか非道とかいうには当たるまい。多くの民衆にとつては、このほうが遥かにありがたいことだった。
 なお、そのときも白鳥家の重臣(一門のものも含むか)は許されて現地の有力者となった。現にその子孫といわれる家が存続しているのは、何よりの証拠といってよいだろう。
 ちなみに白鳥十郎をだまし討ちにしたときの血飛沫が散った桜樹が「血染めの桜」であるという、広く知られた物語は、江戸時代、明治時代を通して、山形の名所名木ないし物語としてまったく記録されたものが見当らない。明治最末期の明治四十四年『山形県名勝誌』、四十五年『山形略記』にもなく、私が見たかぎりにおいて、大正五年発行の『山形市誌』が最もはやいものだ。
 その前後から、「血染めの桜」はその他の印刷物にも取り上げられるようになったのであろう。
 更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入営、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行き渡ってしまったのだろうと、私は推定している。
■■片桐繁雄

つづく
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※「血染めの桜」は山形城二の丸(現霞城公園)にあった桜の老木。昭和32年に倒壊。明治31年から山形城二の丸には歩兵第三十二連隊が駐屯し、「血染めの桜」は連隊のシンボルとされ、その老木の前に連隊旗が安置されて、一般市民にも拝観が許されたという。
2010/08/25 09:22 (C) 最上義光歴史館
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