▼「最上家信奉納の神馬図」 宮島新一2010/09/01 04:00 (C) 最上義光歴史館
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天童城本丸趾に建つ愛宕神社には「慶長八年(1603)菊月」の棟札があったとされるが、今は所在が確かめられない。その後、寛文年間に暴風のため社殿が破壊し、現在の建物は延宝六年(1678)に再興されたと伝える。
当社に山形最上家の最後の城主、家信が奉納した紙本金地着色の神馬図一幅が伝わり、天童市の文化財となっている。
紙本金地著色「神馬図」 天童市・愛宕神社
写真提供:天童市美術館
縦188・0センチ、横212・0センチとたいへん巨大である。構図が似ていることが指摘されている若松寺(天童市)の郷目貞繁筆の絵馬よりも大きく、最上家の当主の奉納品としていかにもふさわしい。図には「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日 家信」という墨書があるが、肝心の年号部分が欠損している。裏面には「慶(カ)□□四年酉九月□四日/□□源五郎家信自筆/愛宕社奉納」と記された後世の貼紙があるが、当然のことながら絵馬から掛軸に改装した後のものである。慶長十四年が酉年にあたるが、家信はわずか四歳でしかなく自筆という文言と矛盾する。箱に「御宝物最上出羽守少将義光公御真筆」と書かれた板が打ち付けられているので、義光存命中の年号にしようとする意図的なものが感じられる。
『山形市史』は奉納年次を元和六年(1620)としている。同じく家信が奉納した山形市内の日枝神社の絵馬に「おさめたてまつる馬形三疋/元和六年十月十六日 家信」と記されているのを参考にしたのだろう。日枝神社の絵馬は猿が馬を曳く様子を描いた珍しい図で、猿が描き加えられているのは日枝神社の使いが猿だからである。また、猿は厩を守るとされている。
厳密に言えば、奉納の年は家信の在国期間を点検したうえで結論を出すべきである。なぜ在国中に限るかと言うと、江戸から送り届けたのでは藩主が奉納した効果が薄らぐからである。以下では『山形県史』史料編の「金石文」の項に集められた、家信による造営、寄進史料をもとに在国期間を考えてみた。あわせて、小野末三氏による綿密な考察「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」を参照した。
最上家信は元和三年三月に父の最上家親が死去したニカ月後に、わずか十二歳で家督を相続している。当時の習慣では大人として認められるぎりぎりの年齢であった。江戸で生まれ育った家信は相続後なるべく早く国の家臣らに顔を見せる必要があった。家信の若さに不安があったのか、幕府は元和四年九月に最上領検使として榊原左衛門をさし向けている。おそらく、それまでに家信は帰国していたはずである。
家信は帰国するや領内安定を願って矢つぎばやに各地の神社を再興している。元和四年七月に鳥海大権現薬師堂と遊佐町の蕨岡大物忌神社を再興し、八月にはかねてから進行していた慈恩寺本堂落成法要を執り行ない、九月には酒田市の亀崎八幡神社を再興している。また、致道博物館に伝わる擬宝珠には「羽州鶴岡垂虹従山形三日町橋令造立之畢 元和四戊午年霜月吉辰」の銘文があるので、これも家信の助力によるのであろう。
このほか『神道体系 神社編』に収録されている羽黒山本社東之坊早鐘銘には「元和三年五月廿八日」の年紀と、「国主時代源朝臣家信公」という耳慣れない文言が記載されている。五月は相続直後にあたるので、父、家親の事業を受け継いだのであろう。もう一つ、西之坊勤仕鐘銘として「元和四年林鐘(六月)吉日」という年紀とともに「国主源朝臣家信公」と記載されている。ここから元和四年の六月から十一月まで造営事業が連続していることがわかる。家信は相続後一年ほどたった六月までに帰国して検使を迎え、在国中に新しい藩主の威光を示そうと、もろもろの造営にいそしんだのであろう。
家信は翌年の正月は山形で過ごしている。『梅津政景日記』によれば、元和五年二月に秋田藩主が参府の途中、天童にて家信より贈り物を受けているからである。三月の細川忠興書状には「東奥の衆すみやかにのぼらるの由」とあるので、やがて家信も江戸に向かったのであろう。五月には秀忠上洛につき江戸留守居役を勤め、六月には取り潰しとなった福島正則の江戸藩邸の接収にあたり、功績をあげている。
ところが翌年の元和六年三月になって幕府は再び監視役を山形に派遣している。「家士など相論おだやかならず。家信、放逸、淫行をほしいままにして、家臣の諌めを用いず。」という理由からだった。『徳川実紀』の同年九月十二日の条には、家信が舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と争論した、という不名誉なことが記録されている。ただし、同年七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う家信の書状(山形市史・史料編1)が存在することによって、この時には家信が山形に在国中だったことが明らかなので事実はともかく、時期については誤りとしなければならない。
元和六年には元和四年と同じように家信の神社への寄進、造営が連続している。おそらく、家臣間の不和を静めようとする願いがこめられていたのだろう。十月には先にもふれたが日枝神社に絵馬を奉納し、十一月には鶴岡市湯田川の田川八幡神社、十二月には飽海郡八幡町の一条八幡神社を再建したことが棟札によってわかる。いつまで在国していたか不明だが、翌年の元和七年五月の銘がある伝山形城大手橋擬宝珠(酒田市佐藤家)が存在することや、大沼浮島神社の石灯籠に「羽州最上山形源五郎源家信 元和七辛酉年六月吉日」の銘があることから、元和七年六月までは在国していたようだ。
『梅津政景日記』によれば、元和七年十月十三日に佐竹義宣は江戸城での茶会のため家信の招待を断っているので、それまでには江戸に戻っていた。佐竹義宣は翌年の元和八年三月の書状で、最上家信の町屋での傾城狂いと酒乱による不行跡を伝えており、八月になってついに所領の没収が決定した。十七歳だった家信はわずか一万石に改易され、近江に転封となった。
一般には家信が義俊と改名したのは改易後とされるが、元和九年閏八月十三日付け慈恩寺別当宛書状に「最源五家信(花押)」とあるので、改易後もしばらく家信を名乗っていたようだ。改名の時期はまだはっきりしていないが、翌年二月に寛永と改元されているので、このあたりが改名のきっかけになったかもしれない。愛宕神社の絵馬は改名前の寄進ではあるが、改易後とは考えにくい。諸社への寄進は元和四年六月から十一月までの間と、六年十月から七年六月までの間に集中している。ただし、『神道体系』の羽黒山の部には「藤松丸木像」の銘文として「国主時代山形源朝臣家信公 干時元和八稔卯月吉日」という意味の取りにくい記載がある。これをも含めるならば、改易直前の元和八年も範囲に入れなくてはならない。
本図は26・5センチ四方という日枝神社の絵馬とちがって規模がきわめて大きいことを考えると、初めて入国を果たした元和四年(1618)の可能性を考えてみたくなる。奉納日の直前の九月十二日に幕府の最上領検使を迎えていることもその心証を強くする。「諸願成就」の中には検視が無事終わることを願う意味もあったのかもしれない。絵馬は九月に奉納されている。上述のように家信が九月に在国していたのは元和四年と六年である。七年の可能性もまったくないわけではないが、除外してもよいだろう。
奉納先の愛宕権現は火除けの神でもあるが軍神でもある。愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしている。そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろう。たまたまかもしれないが、元和四年は午(うま)年にあたる。だが、日枝神社に猿を描いた絵馬を奉納した同六年が申(さる)年だったことを考えると、単なる偶然とも思われない。ここでは元和四年を奉納の年と考えておきたい。
この絵馬からは初めて領国と家臣を目にする、年若い大名の心の昂ぶりが感じられないだろうか。図は、白地に茶色の横縞が入った小袖に緑色のたっつけ袴を穿き、紐を足首で結ぶ皮足袋に草鞋履きの若者が手綱を強く引いて、はやる馬を抑えながら駆けて行く光景である。形式的な図がほとんどの絵馬の中にあって他には見られない躍動感がある。口取りを画面中央馬体の前に配して馬よりも強く印象づけようとしており、風俗画としても見ることができる。腰に結んだ赤い帯に差した脇差は印籠刻鞘風の拵で、金色の盛上げ彩色が施されている。若者の月代を剃らずに頭部全体の髪を短く伸ばした髪型と、南蛮風俗を意識したものだろうか、首の回りに認められる鋸歯状の襟飾りが印象的である。
風俗や馬の表現からすると家信の署名がなければ、この図はおそらく寛永期以降の作とみなされるだろう。だが、本図が元和四年(1618)の作であるならば、従来、寛永期とされていた風俗画、代表的な作品をあげれば国宝の「彦根屏風」などを、元和期にまでおし上げる有力な根拠となるだろう。その可能性についてはすでに『風俗画の近世』(至文堂 日本の美術)において指摘したことがあるが、本図の存在を知ってその意をいっそう強くした。
元和期の作とはっきりとわかる絵画は少ない。元和五年の建物に描かれた旧円満院(現在は京都国立博物館)障壁画中の風俗画は、慶長二十年(1615)に描かれた名古屋城対面所の風俗図の系統を引く。従来は、十年間におよぶ元和期は慶長期の尻尾のように扱われてきた。最近、狩野博幸氏によって紹介された元和六年の東福門院入内行列を描き加えた「洛中洛外図」屏風にしても桃山時代の作品との区別が難しい。しかし、今後は元和期を寛永期を先取りした時代として二重写しにして見てゆく必要があるだろう。
『治代普顕記』(『大日本史料』12編47)によれば、最上家信は「平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし」ていたとある。家信が改易された翌年の元和九年に、福井藩主の松平忠直が乱行を咎められて隠居を命じられ、豊後に配流されている。忠直も十三歳で家督を相続し、一国という都の遊女をつれ帰っている。家信と忠直の行跡はぴったりと重なる。松平忠直も最上家信も元和期という、大坂夏の陣の「戦後」という同じ空気を吸いながら、享楽的な日々を過ごした若き大々名であった。
松平忠直は岩佐又兵衛という希代の風俗画家を世に押し出した。一方、最上家信は自筆の絵馬を残した。本図を日枝神社の同じ白黒斑の絵馬と比較すると、尾の表現や斑の具合から見て同筆と考えられ、職業絵師らしからぬ大胆な筆遣いで描かれているところから、伝承どおり最上家信筆とみなす可能性は十分にある。
杉板金地著色「猿曳馬図」(三面のうち) 山形市・日枝神社
そうであるならば、最上家信は自身の手で元和期の風俗を今に伝えるという、思わぬ功績を残したことになる。
■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�17」より