▼最上家臣余録 【本城満茂 (4)】2010/11/27 15:36 (C) 最上義光歴史館
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【本城満茂 (4)】
ともあれ、最上氏が最上・村山両郡に勢力を進展させていく十五世紀始めの段階において、最上氏は庶子たちを積極的に郡中における交通・経済の要所へと分封し、大規模な惣領制を展開してその支配権を固めていった。最上家三代の最上満直の子満国も應永十三(1406)年に楯岡へと封じられ(注6)、天童氏や中野氏らと同様に周辺地域の支配を進めて行ったと考えられる。だが、その支配体制も、時を経るに連れて一族の宗家からの分立・台頭が激しくなる。最上氏は、斯波兼頼を始祖とする一族の宗家という権威を振りかざして領国支配を行っていたものの、例えば天童氏は同じ斯波一族として最上家と同等の格を以って大崎氏に相対しており、次第にその独立性を強めていったようだ。
楯岡の地に入部した後の楯岡城主は、初代伊予守満国のあと、二代河内守満正、三代和泉守満次、四代豊後守満春、五代長門守満康、六代因幡守満英と変遷したようであるが(注6)、その動向に関しては、十六世紀前半段階に至るまでそれを直接的に語る史料が存在せず、その詳細な動向を探ることはきわめて困難である。信頼のおける史料の上で、その名が登場するのは『伊達正統世次考』永正十一(1514)年二月条で、「(上略)春二月十五日最上兵と羽州村山郡長谷堂に戦う、楯岡・山辺式部已下敵一千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川中務親朝を留めてこれを守る」とあり、伊達稙宗と最上義定との争いに、楯岡は最上方の一部将とし出陣していたようである。なお、この戦死した「楯岡」が上記した城主の誰を指すものであるかは判然としない。
十六世紀も半ばを越え天正年間に入ると、最上宗家の内訌を克服した最上義光が、最上・村山地域の確固たる領国化を強行せんと北進の気配を見せ始める。義光がまず打倒しなければならなかったのは、比較的早い段階から最上家との家格的分立を強め、最上諸族の中でも頭一つ抜きんでた形で独立色が強い天童氏であった。天童氏は元亀末から天正初期にかけて発生した最上家内紛の際も反義光の急先鋒であり、最上宗家に対する対立姿勢を明確に示していた。当時天童氏は険阻な山城の天童城に居を構え、四方に支城を設けて重臣たちを配置し防御線を構築していた。さらに、天童の周辺地域の国人領主達とは同盟関係にあり、「最上八楯」として地域的党的結合を為していた。「最上八楯」は天童・延沢・飯田・尾花沢・長瀞・六田・成生そして楯岡であり、楯岡氏も天童方の一翼として、押し寄せる最上勢を幾度か撃退しているようである。
対する最上義光は、延沢満延の嫡子又五郎に娘を嫁がせ、婚姻関係を結ぶ事によって二家の間に和議を成立させた。その衝撃はかなりのものであったようで、天童勢は瓦解への道をたどった。天童落城の時期に関しても、天正五年(1577)説と天正十二年(1584)説があるが、近年は十二年説が有力である(注7 他)。ともあれ、延沢氏が最上方へと転向した結果、中心的存在を失った最上八楯の結束は完全に崩れた。義光はその余勢を駆って北進し、最上八楯を含む国人領主達を制圧し、領国化して自らの支配権を拡大していった。もちろん楯岡氏も例にもれず、最上氏の侵攻を受けた。当時の城主は楯岡因幡守満英であったとされるが、満英がいかなる抵抗をしたかを示す史料は存在しない。東根の後詰に出向いた満英が、落城の報を聞いて絶望し自害して果てたという話が残っている(注8)ようだが、確証は無い。ただ、その後の楯岡領は豊前守満茂へと襲封された事は確かなようである(注6)。
<続>
(注6) 『村山市史 原始・古代・中世編』(村山市 1991)
(注7) 『山形県史 第一巻』(山形県 1982)
(注8) 川崎浩良『山形の歴史(前篇)』(出羽文化同交会 1948)
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