▼最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【六 太田備中守に仕えた小泉平内】2011/02/27 16:15 (C) 最上義光歴史館
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【六 太田備中守に仕えた小泉平内】
最上時代の分限帳に見える佐竹平内とは、この小泉平内のことなのか。この平内の家系が佐竹姓に復したことが、『佐竹家譜 元小泉』(以下、『家譜』)により分かっている。その『家譜』は、本論の冒頭に忍藩『親類書』と共に取り上げている。この二つの史料を調べ併せ、佐竹内記を棟梁とする佐竹氏一系の動静を、ある程度、掴むことができた。特に『家譜』の小泉平内を内記の五男とする記述が無ければ、内記に直接に結び付く系譜の発掘は、不可能なことであったろう。
『家譜』には平内を内記の五男とあり、これを『親類書』も五人兄弟の最後に平内を置いている。平内が小泉姓に変わった事情と時期は分からない。これが『家譜』の四代・義豊の時に、「元禄十三庚辰年二月三日、苗字佐竹と相改」とあり、佐竹姓に復したことが分かる。小泉姓は平内の養家先の名であったのかも知れぬ。平内の太田氏への仕官は何時頃であったのか。『家譜』に云う。
一 覚永年中月日不知、瑞華院様御代北見久太夫殿肝煎を以御馬廻被召出、知行百五拾石拝領候、
平内は寛永年中に瑞華院様(太田資宗)の代に召抱えられた。羽州の地を去ってから、さほど遠くない時期であったろう。平内の主となる太田氏の、譜代大名としての家臣団編成の時期は遅く、資宗が五千六百石の旗本として仕え、寛永十二年(1635)に下野山川で、初めて一万五千六百石の譜代大名となる。三年後に三万五百石にて三河西尾へ入る。太田氏の家臣団の増強から編成の時期は、この辺りから本格的に始まっていった。
平内の禄高を見ると、当初の百五十石から二度の加増を受け、二百五十石を給されている。また物頭、番頭などの役も勤め、新しい土地で中堅藩士として活躍の場を得ている。延宝年間の家臣団の禄高を見てみると、二百五十石取りは六人、上位から数えて見ると、平内は十九番目以内に入る禄を頂戴していたことになる。
平内は貞享三年(1686)十一月、田中にて没。長命であったろう。『家譜』は十代・義定の天保年間まで書き綴られている。備中守資美の明治二年(1869)二月、百二十間居城の掛川を離れ、最後の封地となる上総柴山藩に入るが、やがて廃藩を迎えることになる。明治二年の[御家中名前帳]には「五拾弐俵 佐竹平内」とあり、廃藩置県となるのはこの二年後のことである。
太田氏家臣として最後まで勤めた佐竹氏の、略歴の一部を『家譜』の内から選び出してみよう。
二代・俊政 … 天和二壬成年正月、物頭被仰付候鉄砲組御預被仰付候、
三代・頼俊 … 元禄十丁丑年七月、亡跡式御大法之通式百石拝領候、御馬廻被仰付候、
四代・義豊 … 元文二閏十一月、物頭被仰付土肥弥門跡弓組御預被仰付候、
五代・義陳 … 宝暦八戊寅年四月、御側御用人兼役被仰付候、
六代・義著 … 天明二寅年正月、父家督無相違百八拾石拝領候、
七代・義命 … 寛政四壬子年十一月、格式大目付被成下、小納戸勤被仰付候、
八代・義利 … 文化二乙丑年八月、亡父跡式弐百三拾石無相違拝領候、
九代・義方 … 天保元庚寅年七月、大坂表引越被仰付候、
十代・義定 … 天保六乙未年七月、亡父跡式御大法之通、七拾石拝領候、
話しは少し戻るが、忍藩の『親類書』に「伯母婿 小川十郎左衛門」とあり、それに「北見久大夫殿家来」の加筆がある。この北見氏とは、『家譜』から平内の召抱えの際の「肝煎」を勤めていたことが分かり、伯母婿の小川氏も、平内と行動を供にしてきて、北見氏に陪臣として仕えたのであろう。
■執筆:小野末三
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