▼最上家をめぐる人々♯35 【最上義智/もがみよしさと】2011/06/03 15:17 (C) 最上義光歴史館
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最上家が近江大森(滋賀県八日市市)1万石になってからは、そこに陣屋を構えながらも当主は代々江戸城に勤めていた。義光の曾孫にあたる義智は2歳のとき父義俊を亡くし、
大人になるまでは半分でいいと、幕府から5千石に減らされ、あとは返されなかった。しかし名門の子孫ということで、元禄8年、義智は「高家」に列せられ、従五位下、侍従という大名クラスの官職についている。高家とは江戸城内で勅使接待など、特殊な儀式を担当する役目である。
高家で有名なのは吉良上野介だが、これも最上家と同じく清和源氏の一流で、共に名門同士。江戸城内でときどき顔を合わせる機会があっただろうと想像されるが、惜しむらくは、両人の交渉を物語る史料はまだ見つからない。
義智は義士討ち入り(元禄15・1702)の五年前、元禄10年に67歳で死去。したがって吉良上野の悲劇は見なかったことになる。
大森の最上家陣屋の跡は、玉緒小学校の敷地となり、かたわらには「最上陣屋跡」と刻まれた記念碑が建っている。
武村正義氏が滋賀県知事時代に書いた文字である。
■■片桐繁雄著