▼最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【三 越中出身の土肥氏(越中土肥)】2011/09/09 11:13 (C) 最上義光歴史館
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【三 越中出身の土肥氏(越中土肥)】
遠く源平の昔、鎌倉に幕府を開いた源頼朝に仕えていた、土肥実平の後裔だという。幕府の内部抗争に破れた土肥氏ではあったが、その一つの流れが新川郡(富山県)弓庄に移住、天正の頃には弓城を中心に、一族の割拠するところとなる。
その頃の越中全体は、未だ織田信長の勢力圏下にあった。その死後は豊臣秀吉や上杉景勝などとの抗争の内に破れた弓庄の土肥美作守政繁は、長子の半左衛門をはじめ譜代の家臣百余人を引き連れ、越後へと退いて行った。政繁は上杉氏の扶助を受け、また一族や旧家臣達の多くは上杉の家に仕えるが、慶長五年(1600)の関ケ原の役を境に、土肥の旧臣達の多くは上杉の扶持を離れ、藤田丹波・有沢采女・栃屋半右衛門などは、最上家への仕官の道を選んでいる。
元和二年(1616)四月、山形藩主の最上家親が発した手勢の襲撃を受け、ここに越中土肥は消滅した。この時、旧主を共に上杉氏とした下一族や、越中以来共に歩んできた越中土肥の旧臣達は、一斉に最上家を退去する。そしてその内の有沢采女は、加賀の前田家に仕え系譜を伝えた。孫の永貞(また俊貞) の代の延宝九年(1681)、絶え果てた旧主を回顧し[土肥家記](以後、[家記]とする)を書き上げた。これが越中土肥の全容を知る上に於いて、中心的な材料となっている。
話しは天正の頃に遡る。土肥一党が弓城の退去から上杉家に吸収され、それが慶長三年(1598)の主の会津への所替、さらに二年後の関ケ原の役の敗戦により、土肥の旧臣達は上杉家を去って行く。
…土肥半左衛門殿景勝乃扶助を以て年月を被送候処ニ、慶長三年景勝会津へ所替の節、越後をハ掘左衛門督殿拝領有て、過分の立身にて入部の間、是を頼んで越後ニ残る侍共多し、半左衛門も其内也、([家記])
越中・越後での群雄割拠の中で、その生き場を上杉家に求めた土肥一党ではあったが、それが会津への転封による越後からの撤退は、越後を捨て難い者達にすれば、上杉家からの離脱もやむを得なかったであろう。そして、新領主の掘監物に仕える者達や、半左衛門のように、越中の前田利長に仕官の口を得ようとした者も居た。しかし、半左衛門の場合は思わぬ弊害が立ち塞がり、事は順調には運ばなかったようだ。
…其節半左衛門殿越中に来り、前田肥前守殿へ一万石の約束にて既に礼相済迄に成て、讒者有て土肥ハ越中弓庄の旧守にて、普代の被官多候へハ、乱逆の次而ニハ彼者必一揆を起さんと、百姓とも従ひ安かるへき旨申により、事不調と云々、([家記])
このように、越中の前田利長に高禄で取立てられる筈だったが、何かと横槍が入り、直前に沙汰止みになったようだ。若しこれが実現しておれば、半左衛門の半生も別な方向へと向かっていたであろう。
…又、越後に帰り、掘殿の与力分柴田(新発田)の城主溝口伯耆守聊親ミ有て、是を頼ミ、柴田に一両年を送らる、其後、右下対馬を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に、小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし、半左衛門を招故也、其時土肥殿并普代の家人、皆最上出羽守殿を頼行て主人とす、([家記])
上杉景勝が会津へと去った後の越後の内情は、慶長四年(1599)八月頃から始まる「上杉遺民一揆」 の渦中にあり、関ケ原の前哨戦として、徳川対上杉の対立が浮き彫りになってきた頃である。その最中に半左衛門が徳川方に組していた溝口秀勝の下に、一両年いたということは、最上対上杉の出羽合戦に於ける谷地攻防戦で、上杉勢の下氏に従い活躍していたという軍記類の記述は、成り立たないであろう。
…半左衛門殿御手柄の事、柴田に在住之節慶長五年関ヶ原御陣之時、越後六郡一揆起り、柴田之辺丸田の右京、赤田の斎藤、五十公の黒川等大将として所々に楯籠る、溝口伯州退治有之処、半左衛門も同道有之、有時追合に百姓の首七ツ討取られしかとも、([家記])
慶長五年(1600)九月、美濃の関ヶ原に於いて徳川方の勝利に終わる。この頃、越後では蒲原・魚沼・古志などで起きた一揆は、俗に「上杉遺民一揆」と呼ばれ、越後全域に広がりを見せていた。その発端は何であったか。それは上杉景勝の会津転封の後に、越後に入った村上頼勝・掘監物・溝口秀勝などの勢力に対して、旧主上杉を慕う農民や神職等を中心とする勢力とが、一揆という形で抗争の場と化していた。
その溝口勢の中に半左衛門の姿があった。[寒光院様(三代宣直)御在世之時公義江御書附]によれば、三千余人の一揆が押し寄せ、秀勝はこれを防ぎ二百人を討取ったので、一揆は算を乱し逃げうせた。そしてこの一揆は他の一揆と合流、三条城を取り巻いた。秀勝は半左衛門等を遣わし、一揆に内応する百姓がでるのを防ぐため、人質を閉じこめた。しかし、その帰路に七日町の渡しで一揆に遭遇、半左衛門等は難を逃れ新発田へ注進したという。この話しは諸史にも取り上げられている。
[掘氏由来]
…村上周防守は城を守て居るゆへ、家臣諸兵次右衛門、久保与左衛門、土肥半左衛門三人を遣す処、七日町の川船渡し也、其船頭人質を取って渡す処、川中にて船頭棹をもって久保与左衛門を打落し溺れ殺す、諸兵次右衛門、土肥半左衛門両人は遁帰る、
[北越太平記]
…溝口伯耆守は老将功者なりければ、若我領分にも一揆起こる事もありと思い、気呂次郎右衛門、窪田与左衛門、戸井半左衛門を遣し、領内の百姓共の人質を取りつつ、新発田の城へ入させける、三人の者共七日町の宿を過て、川を渡ける処に、渡守三人寄合、窪田与左衛門を切殺しければ、毛呂、戸井二人は川を泳越し、命計り助りて、此旨を伯耆守に告たりければ、云々
このように、関ヶ原での戦いの直前には、半左衛門は越後に於ける徳川方の一員として、活躍していたことが分かる。それは、軍記類などの谷地攻防戦に登場する、下次右衛門の配下にあって活躍したという記述には無理がある。
元和八年(1622)の最上家改易の後に、庄内藩酒井家に再仕官を求め、[覚書]を提出した多くの者達がいる。その中の越中出身の黒田茂左衛門の覚書から、その当時、半左衛門と共に溝口秀勝に属していたことが分かる。
[黒田茂左衛門覚書]
一、越後柴田ニおり申時、八月七日ニ成田のかつせんニ高名仕候、はうき殿御家中ニ各々被存候事、但、土肥半左衛門尉ニ有申時、
一、亀崎おしこみ四月廿四日ニ高名仕候、大山衆各々被存候、但、土肥の半左衛門尉家中ニての事、
このように、茂左衛門は半左衛門の弓庄以来、共に行動を共にしてきたことが分かる。
■執筆:小野未三
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