▼最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【四 最上家への道程】2011/11/06 10:06 (C) 最上義光歴史館
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【四 最上家への道程】
慶長五年(1600)九月、天下の形勢が定まり、長谷堂にて最上勢と対時していた上杉勢は、急遽、米沢へと撤退を開始する。しかし、未だ谷地にて交戦中の下次右衛門の一党が、最上側の説得を受け兵を収めたのは、しばらく後のことである。
そして、今度は下次右衛門は最上の將として、庄内に残存する上杉勢を攻めるために出陣していくことになる。この天下の趨勢が決まりつゝある時、半左衛門が越後を離れ、下氏の内に入ったのは何時の頃であったのか。[家記]は半左衛門の溝口秀勝の下での活躍振りを伝え、次いで下次右衛門を頼り越後を去っていった様子を伝えている。
…其後、下対馬(次右衛門)を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし半左衛門殿を招故也、其時土肥半左衛門殿并普代の家人、皆最上出羽守穀を頼行て主人とす、半左衛門殿ハ対馬居城大山の城三丸ニ居住、出羽守殿より唯今の知行五千石計のあてかひなりし也、土肥殿普代の家来相残る者供、栃屋半右衛門・上坂式部・有沢太左衛門・藤田丹波、扨ハ采女など跡先に皆羽州へ行奉公相勤るなり、其内采女にハ、越後・出羽の境目小国の城を預らる、([家記])
越後での徳川方の掘・村上・溝口などの勢力により、上杉勢と一揆の平定を見たのは、八月の上旬のことである。とすれば、半左衛門が溝口秀勝の許を離れたのは、これ以降のことであろう。しかし、半左衛門が旧縁の下氏を頼るにしても、反上杉の立場の溝口氏に属していた半左衛門が、直ちに上杉方の下氏の許に走るとは思われず、谷地攻防戦が終り、下次右衛門が最上に降り、その将として翌年四月に始まる酒田攻めに参加する頃、半左衛門は下次右衛門の許に入ったのではなかろうか。
下氏については、上杉時代の[文禄三年定納員数目録]によると、「大山衆 千四百五拾八石」とあり、庄内三郡の代官として活躍していた。[家記]によれば、「半左衛門殿姉婿下対馬守事、本ハ越後の住人也、土肥御牢人にて御入候節、婿となし給ふ也」とあり、半左衛門が下氏との嫁が生まれたのは、土肥一党が弓庄を去り、越後の上杉氏の許に入ってからの事であろう。
上杉時代の半左衛門に関しては、上杉対最上の庄内争奪の戦いが始まる、天正十六年(1588)の十五里ケ原合戦の前後から、下氏や半左衛門とも関わりを持つ原八左衛門などと共に活躍している。この合戦が上杉方の勝利に終ると、下次右衛門は尾浦(大山)の代官として勢を振るう。半左衛門は与力組頭として丸岡在番となり、引き続き次右衛門に付随することになる。そして、慶長三年(1598)の上杉景勝の会津転封の際には、何故か景勝の許を離れて行くのである。
慶長六年(1601)四月、最上勢による上杉残存勢力の酒田攻めが始まると、先陣の下次右衛門の手勢の中に半左衛門の姿があった。[奥羽永慶軍記]には、「山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進、我ヲ手本ニセヨトイフママニ……」とあるが、これを増田土肥の半左衛門とするのは無理だろう。併せて、酒田城下での戦い振りを拾ってみよう。
…其節出羽守殿ハ在江戸にて追合有之時、半左衛門殿一番に進ミ、上坂式部・下長門守・藤田丹波四人先渡にて鑓を合、大勢つつき敵餘多討取、次の日押入、二の丸まて焼払候二付、扱二成、城ヲ明渡し申候、その時、修理殿(義康)より四人に感状給候由、此咄藤田丹波覚書に有、([家記])
この[覚書]などに見るように、下次右衛門の一党となり旧主上杉の勢力と相争う、半左衛門を始めとする越後・越中出身の者達が多くいたのである。
■執筆:小野未三
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