▼最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【五 二つの襲撃事件】2011/11/06 10:12 (C) 最上義光歴史館
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【五 二つの襲撃事件】
増田と越中と異なる出身地を持つ土肥半左衛門の内、修理大夫義康と清水大蔵義親への襲撃事件に関わったのは、いずれの半左衛門なのか。大方の軍記類は「庄内大山の住人戸井半左衛門」としているが、これは明らかに越中出身の半左衛門であろう。軍記類の云う義親に味方して命を落とした半左衛門について、「是は先年丸岡にて罪なき修理大夫殿を鉄砲にて討奉りたる罰にても侍らんか」としているのは、二つの事件は共に一人の半左衛門の仕業だということになる。ここに、二人の最上の旧臣が庄内藩に提出した[覚書]がある。
[万年久左衛門覚書]
一、於添川之地高名仕候、藤田丹波可被存事、
一、最上之谷地と申所二籠城之時、はづを合せ申候、丹波可存候事、
[五十嵐甚五左衛門覚書]
一、最上修理正切腹之砌、てき一人うち申候、原美濃申候、
この[覚書]を見るように、二人は共に義康襲撃事件に関わっていたことが分かる。その証人として藤田丹波と原美濃を挙げているが、丹波の旧主は越中土肥の半左衛門の父政繁で、弓庄以来の旧臣である。また原美濃(頼秀、八左衛門)は、下次右衛門の養子の長門の伯母婿として、次右衛門と行動を共にしてきた人物である。そして谷地での戦いの後、最上の臣となり、改易の日を迎えるまで、庄内川南の代官として足跡を残している。
この[覚書]で解るように、この事件に越中土肥と深い関わりのある者達がいたことからも、こゝに登場するのは越中土肥の半左衛門であろう。
義康が義光の勘気に触れ山形を退散、高野山への道程を下次右衛門の勢力圏内にとった一行を、これを攻めた最高責任者は下次右衛門ではなかったのか。そして、その実行者として手を下したのが、半左衛門を主とする下一党の面々であった。
現今、この事件を取り上げ、興味深く描いている出版物が多く見られる。その内の一本を取り上げ、関連箇所を引用してみよう。
…この事件には義光は命を出してはおらず、里見民部や原・土肥による陰謀に下次右衛門も加わっていた。事件が発覚し義光が激怒した事を知ると、次右衛門は我が身に疑惑が降りかかることを恐れ、半左衛門を葬ろうとした。それを知った半左衛門は逃亡したが、南部盛岡城下で追手により討取られた。また原八左衛門も山形城で捕らえられ打ち首となった。
このように、半左衛門の他国への逃亡説などと、全く予想だにしなかった展開にまで発展している。原美濃にしても、先に少しは触れてはいるが、元和五年(1619)加茂村の「年貢皆済状」にも連署しており、また三年後の最上家改易後の九月、庄内の「万役(雑税)書上」にも署名している。
次の義親襲撃事件に際して、義親方に荷担し共に最期を遂げたというのは、いずれの半左衛門なのか。軍記類の多くは、家親の追及が迫った義親を清水へ逃し、最期は義親と共に殺されたとしている。そして、世間はこれが義康を攻め殺した罰であるとして、この二つの大事件は同一の土肥半左衛門の仕業と見ていることだ。
要するに多くの軍記類に登場する土肥半左衛門とは、それは同一の人間であり、越中土肥の半左衛門であると云っているのだ。そこからは、同じ時期の最上家中に複数の半左衛門がいたことは、全く見えてこない。ただ、明確に判断できるのは、慶長八年(1603)の義康襲撃事件に関わったのは、越中土肥の半左衛門だということだ。
■執筆:小野未三
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