▼「『最上屏風』の由来について」 宮島新一2012/06/20 16:31 (C) 最上義光歴史館
|
▼100advertising▼ranking
|
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
|
▼「『最上屏風』の由来について」 宮島新一2012/06/20 16:31 (C) 最上義光歴史館
|
▼100advertising▼ranking
|
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
|
「最上屏風」の由来について
「最上屏風」がほんとうに「大坂夏の陣」を描いたものか、という疑問を払拭するのが小文の目的である。
大坂夏の陣図(通称:最上屏風) 上山城蔵>>拡大
山形市の光禅寺に伝来していた原本は残念ながら明治二十七年の大火で焼失してしまった。原本が残っていれば制作年代がある程度推定できるので疑問が解消できたかもしれないが、摸本からはそうした手立ては失われている。その結果、生々しい合戦の実態を記録した貴重な図であるにもかかわらず、絵画資料としての位置づけは不安定なままである。ほとんどの合戦図が後世の想像図に過ぎないだけに、いっそう原本の焼失が惜しまれる。
そのかわり、もう一つの大坂夏の陣図屏風のように大名の黒田家が秘蔵してきたのではなく、寺院に伝来したために模写が容易だったのだろう、数多くの摸本に恵まれている。それにともなって他の合戦図にはない豊富な記録にも恵まれている。川瀬同氏は「文献に見る光禅寺蔵大坂夏の陣屏風図」(山形郷土史研究協議会『研究資料集』11・17号)において記録類を網羅するとともに、そこに登場する人物の考証もあわせて行なっている。「最上屏風」に関するもっとも基本的な文献として小文でも参考にさせていただいた。
それによれば、「最上屏風」に関する最初の情報は意外な著名人によって記録されている。『解体新書』で有名な医師、杉田玄白は『いくさの絵の記』(『大日本史料』第十二編十九)に、「五十二年前」のこととして次のように記している。
「童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(中略)、慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、(最上殿の)御内の武夫ばかり軍の御供をして罷り上りたるが、彼地にてはなばなしき功名せし。その武夫共の戦の仕様をそのまま絵に写し主のもとへ土産にせしを彼国に残し伝へ侍る(中略)。その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり(中略)。その屏風見し人の申したるよし語られたり。」
寛政十二年(1800)七月の五十二年前、すなわち、寛延元年(1748)には玄白はまだ十六歳だった。「五十年ほど前」ではなく、「五十二年前」とはっきり記しているところをみると、玄白はよほど記憶力がよかったようだ。晩年の玄白に『鷧斎日録』という日記があるが、若い頃から日記をつけていたのかもしれない。その内容は信じてもよいだろう。ただし、日録の寛政十二年には屏風に関する記事は見出せない。そのかわり、文化元年(1804)五月四日の条に、大坂の陣に思いを馳せて太平の世に暮せる感慨を書き残している。
玄白が少年の日のできごとをまざまざと思い出したのは、先の文章に続けて「今年思わずも或人此図を出し(中略)、此頃是を写し得侍りたるとて見せ給えり、翁これを見るに彼の桐江先生の語り給うに露違わず。」とあるように、子供のころに聞いた話とぴったりと一致する図が目前に出現したことの驚きによるものであった。
この図が広く流布するようになったのは、山形・上山城本の桂川中良(桂林舎)による寛政十一年九月の由緒書に「寛政十一年秋、秋元侯家臣小俣七郎彼地に下りける時、一本を模写し予に賜與す、実に此図の世に出るは此摹本を始とす」とあるとおりで、杉田玄白はそれから一年もたたないうちに目にしたことになる。図を写し帰った小俣七郎義陳は当時山形藩主であった秋元家の江戸詰めの家臣で、その妻と桂川中良とは父が同じという関係にあった。一図を得た中良は玄白とともに『解体新書』の翻訳にあたった甫周の弟にあたり、父の桂川甫三も玄白の友人で『解体新書』を将軍家に献呈した奥医師であった。
大坂夏の陣図(通称:最上屏風)部分 上山城蔵
杉田玄白は享保十八年(1733)に小浜藩医の子として江戸藩邸、矢来屋敷に生まれたが、幼年時代を小浜で過ごし延享二年(1745)に父とともに江戸に戻っている。桐江先生は江戸での最初の学問の師ということになろう。玄白は寛延二年(1749)頃には宮瀬龍門および奥医師の西玄哲に入門しているので、桐江先生への師事はわずか三年たらずだったことになる。
桐江先生は年少の杉田玄白がそば近くで師事しているからには、多少なりとも小浜藩とのゆかりがあった人物に違いない。桐江先生のもとを訪れた「屏風を見た人は」、その存在が広く知れわたる以前に見ている。その人は山形の人か、もしくは山形にそうした図があることを聞き及んだ人の、どちらかである。図を写し帰った小俣義陳の例からすると、地元の人ではなかったように思われる。
玄白の記述は、実際に屏風を見た人が桐江先生に語った内容を、桐江先生がある賓客に話し聞かせたかたちになっている。したがって桐江先生は摸本が流布するより前に、いち早く屏風の存在を聞き知っていたことになる。ここから桐江先生が「最上屏風」の謎を解くキーパーソンとして浮かび上がってくる。だが、残念ながら桐江と号した人物が誰かはっきりしない。参考のために桐江を号とした人物を列挙してみる。
1、田中桐江(1663〜1742)は出羽鶴岡の出身。天和三年(1683)に江戸に出て朱子学を学び、柳沢吉保に仕え、そこで荻生徂徠と出会い親交を持つ。正徳三年 (1713)に吉保の奸臣に対して刃傷におよび奥州に逃げ落ちたが、高槻・光徳寺の僧、独麟の勧めにより、享保九年(1724)に仙台から摂津池田に移り「呉江舎」を設立して多くの門人を育てた。富永仲基もそこで学んでいる(『新編庄内人物辞典』)。ただし、墓誌には「武陵に生まれ父田中氏は豊州築城主の臣、忽朝卓爾として遂去し奥に適す、十二年にして武陵に還る」とある。余談になるが、鶴岡出身の日本美術史研究者、故田中一松氏は田中桐江の子孫にあたり、関係資料を本間美術館に寄贈している。
2、菊池桐江は明和六年(1769)版の『古今諸家人物志』に名が見え、徂徠門下の漢学者である入江南冥に学んでいる。名は忠充、字は子信、武助とも大助とも称した。江戸の人で銀座に住んでいた。著述に『桐江山人集』、『唐明詩聯集』(元文元年・1736刊)、『文章雋譜』(宝暦八年・1758刊)などがある。
3、三田義勝(1701〜1777)は蘭室とも号した。享保七年(1722)に江戸詰となり、丸亀に帰国して藩儒となる。
4、平林惇信(1696〜1753)は書家。細井広沢門人で静斎とも号す。弟子が二千人もいたとされる(三田村竹清『近世能書伝』)。
四人のうち田中桐江は後年には関西に居を構え、寛保二年(1742)に世を去っているので、玄白の師であった可能性はない。残る三人の中では秋田藩儒の入江南冥に学んだ菊池桐江が有力視される。生没年は不詳だが、師の南冥が明和二年(1765)に八十歳で没していることから推測される年齢や、著述の出版年からすると玄白が師事することは可能である。彼が著わした『桐江山人集』三巻の存在がわかれば、その当否がもう少しはっきりするだろう。
小川貫道氏は『漢学者伝記及著述集覧』において、菊池桐江を「水戸藩儒」と記している。水戸の彰考館総裁の安積澹泊と交流のあった新井白石(1725没)は仙台の儒者で画家の佐久間洞厳とも親しかった。白石の洞厳宛て手簡の一つに「送桐江翁帰江都の御作二首ともに可然候」という一文が見出せる。新井白石は主君であった堀田正仲の山形移封に従い、貞享三年(1686)に『山形紀行』を著わしたとされている。新井白石はしばしば大坂の陣について軍談を講じ、同陣に関する記事を多く書き残してもいる。桐江先生に最上屏風について語った人物が新井白石だったとすれば面白いが、ここでの桐江翁は仙台から江戸に帰っていることから田中桐江の可能性がつよい。性急な判断は避けなくてはならないだろう。
杉田玄白の聞き書きでもっとも注目しなくてはならないのは、「最上殿の御内の武夫が軍の御供をして、はなばなしい功名をあげた。その武夫どもが戦の仕様をそのまま絵に写し、主のもとへ土産にした。」という一節である。ところが五十二年後に玄白に摸本を見せた人物は「大御神(徳川家康)が最上家親に給う所の」と語っており、この間に由来に関してすっかり変わっていることに注意したい。
こうした伝承は明和六年(1769)正月の『山形棚佐賀志』に名が見える『山形風流松の木枕』において、「家康公より義光へ被下置候御枕屏風此寺の御什物也」とあるので、すでに山形において形作られていたことがわかる。歳月の経過とともに事実が薄らいでゆくにつれて、重々しい由緒が付け加わる典型である。ここでは最上家親ではなく、父の義光が拝領したことになっており、上山城本も含めてそう伝える記録がほとんどである。しかし、義光は大坂夏の陣以前に世を去っており、はじめから馬脚が露われている。「家康から拝領云々」は無視してよいだろう。だが、同時に大坂夏の陣図であることまで否定するのは行過ぎである。
寛延元年(1748)の玄白の聞き書きの重要性は伝承が粉飾される以前の、当初のかたちを伝えているところにある。大坂の陣に最上家親の家臣が参戦していたのは事実で、二人派遣されている。『最上家伝覚書』(国立公文書館)によれば、「大坂御陣中為伺御機嫌、武久庄兵衛・冨田加兵衛と申者、両度為使者差上候」とあって、二人とも冬と夏の両陣に「使者」として参戦し、その功績により冨田加兵衛が三百から六百石へ、武久庄兵衛は五百から千石への加増となっている。
武久庄兵衛は最上家改易後には武勇を認められて松平忠輝の家臣を経たあと、寛永九年(1632)に川越藩主酒井忠勝の預かるところとなり、同十一年の藩主の小浜へ移封に従い、敦賀奉行を勤めるなどして、承応三年(1654)に没している。小浜藩に「大坂夏の陣図」を描かせたと思われる人物の子孫がいたのである。
武久家については『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜−再仕官への道程−』(最上義光歴史館)を著わした小野末三氏がとても興味深い事実を明らかにしている。すなわち、今日国宝となっている「伴大納言絵巻」が寛政九年に酒井家に召し上げられるまでは武久家が所持していたこと、『若むらさき』(大田南畝編「三十輻」所収)に「絵巻物者賜於最上家焉」と、最上家から賜ったと記されていることなどを紹介している。
かねがね、どういう経緯から武久家が「伴大納言絵巻」を所持することになったのか、不思議に思っていた。そこで、次のように考えてみた。
武久庄兵衛の武功はすでに加増によって報われている。絵巻を賜ったのは「大坂夏の陣図」との交換であり、献上に対する褒美である。参陣を許されなかった家親はなんとしてでもこの図が欲しかったのだろう。後に「大坂夏の陣図」が最上家を出て最上義光の菩提寺に移った事情については、重要文化財の狩野宗秀筆「遊行上人絵伝」十巻が家親の子の義俊が亡くなる寛永八年(1631)に、光明寺に再寄進していることが参考になる。本図も同時に光禅寺に寄進されたのであろう。最上家改易の原因となった義俊が最期に臨んで、父祖の足跡を山形の菩提寺に残そうとした心情を察してやりたい。
この図をめぐる多くの伝承の中では、もっとも早い杉田玄白の聞き書きを何よりも尊重しなくてはならない。それに従えば、原本は最上家から大坂夏の陣に派遣された武久庄兵衛昌勝が主君への土産として描かせた可能性がつよい。他の合戦図のように六曲屏風ではなく画面が小さいのもいかにも土産にふさわしい。最上家改易後に武久庄兵衛が小浜藩に仕官したことから、同じ藩の藩医の子供の耳にも正確な情報が入ってきたのだろう。
五輪塔の旗指物が目立つことから本図を最上義光の合戦を描いたとする指摘はすでに江戸時代からある。そのせいで本図を大坂夏の陣図とする意見が抑えられてきた。だが同時に、同じ旗指物で大坂夏の陣に参戦した武士がいたことも考証されている。現存する幾多の合戦図を見ればわかるが、誰も知らない出羽での局地戦を「リアルタイム」で描きとどめるような行為があったとはとても考えられない。
別の秋元家家臣、国友恆足は「山形光禅寺蔵屏風合戦絵考」において、文化八年(1811)八月晦日に光禅寺にて実見したときの印象を次のように記している。「屏風は二枚折り(中略)、地は金紙にて彩色も亦あしからねど、年をふるままに今はうすらぎ(中略)、いと古雅なり」
大坂夏の陣図(通称:最上屏風)部分 上山城蔵
「古雅」という言葉が死体が横たわり、手に首を提げる武士が描かれる合戦図に似つかわしいとも思われないが、その言葉にふさわしい場面が画面の左上片隅に見える。城内の中門あたりに並ぶ三人の男子の姿がある。先頭の子は末期の水であろう、竹筒の水を椀に入れて傷ついた兵にさしだしている。二人目は目を覆い、三人目は口元を覆っている。
彼らの髷の形は上流階級の子供を意味する「稚児輪」らしく、後頭部に二つの輪を結ったように見える。牛若丸の髪型と言えばわかる人がいるかもしれない。肖像画では上級武士の子供の風俗として室町時代末期にしか見ることができない髪型である。豊臣秀頼の周囲には古い風俗が残されていたことを物語っている。
結論を言えば、本図は大坂夏の陣の目撃者、武久庄兵衛が描かせた希有な合戦図である。
■執筆:宮島新一(美術史学者/日本絵画史)「歴史館だより�19」より