▼燦・虎賁郎将最上義光2005/07/14 09:31 (C) 最上義光歴史館
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天下麻のごとく乱れた十六世紀、奥羽の世界もまた例外ではなかった。この混乱に終止符を打ち、出羽国に平和と安定をもたらしたのが、最上義光である。
幾多の困難にうちかって、壮大な国づくりの夢を実現した最上義光。その偉業は、今もなお山形地方に大きな影響を及ぼしている。
古くは南北朝時代、清和源氏の一流、斯波兼頼が出羽探題として最上府中山形にはいり、この地を政治の拠点とする。それから190年の後、天文15年(1546)、義光は第10代山形城主、最上義守の嫡男として生を享けた。その青年時代は苦難の連続であった。米沢の伊達氏、庄内の武藤氏をはじめとする、諸領主との幾多の戦いを経て、16世紀の末には現在の山形県内陸部の過半を領有するにいたる。
そして慶長5年(1600)、天下を二分した関ヶ原合戦に際しては、徳川家康と連携して会津の上杉景勝と戦い、その論功によって57万石という大々名となる。その版図は置賜地方を除く山形県の全域から秋田県の南部におよび、その広大さと豊かさは、俗に「最上百万石」と称されるほどであった。
世は乱世から泰平へと、大きな転換期を迎えていた。
人口の急増、貨幣経済の浸透、生産技術の向上…義光はこうした時代の動きを洞察して、新たな領国の建設に努めた。
雄大な山形城を築き、周囲には整然とした城下町を建設した。多くの堰をつくって、新田を拓いた。庄内の穀倉地帯は、実に最上義光からスタートしたといって過言ではない。治水、交通路の整備、鉱山の開発、最上川難所の開削、神社仏閣の護持…出羽国は、英傑最上義光の出現によって、画期的な変貌を遂げたのである。
義光は出羽の人と土地を愛した。信義を重んじ、伝統文化を尊んだ。
「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候 水を一杯のみたく候」
これは、文禄の役に際して、故郷を思う心を述べた手紙の一節。
「偽りは侍の道にあらず」断固としたこの言葉は、妹義姫(伊達政宗の母)あての書簡にある。
古典文芸に造詣ふかかった義光と、その家臣たちによって、山形に数多く美術工芸がもたらされた。出羽太守の城下山形に絢爛たる桃山文化の華がまさに咲き誇ろうとしていた。
だが、その矢先、元和8年(1622)8月の最上家改易によって、こうした動きは滞ってしまう。
そしてその後、山形はめまぐるしく藩主交替が繰り返される。一貫性のない政治の下に生きねばならなかった山形の民衆にとって、「出羽百万石、黄金の時代」だったのである。
幕末庄内の勤王の志士清川八郎は、その著書「西遊草」のなかで最上義光の業績をしのんでいる。江戸幕府の儒学者塩谷宕陰は、義光を「虎将」と讃えて漢詩にうたった。
後世の人々からまで大きな存在として仰がれた義光は、慶長19年(1614)1月18日、波乱と栄光に満ちたその生涯を閉じた。時に69歳。
出羽国が生んだ最大の英傑、虎賁郎将最上義光。
その名は、燦として、永く人々に語り継がれていくにちがいない。(勘)