▼東海林正志氏の戦争体験 42006/02/20 08:40 (C) さがえ九条の会
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昭和16年に孫呉義勇隊訓練所に移行してきた私たちと第4次義勇隊の四ケ中隊は、昭和18年に、私たちの中隊が義勇隊開拓団に移行し、第四次義勇隊の中隊は、昭和19年に義勇隊開拓団に移行し、その後、新入所の義勇隊が昭和19年に四ケ中隊が来て、昭和20年五月に一ケ中隊が入所しました。
昭和20年8月9日、「ソ連軍が満ソ国境を越えて侵入した」との第一報が入ると間もなく,訓練所の婦女子は訓練所のトラックで南孫呉駅に向かい、列車で南下する。孫呉の師団司令部から、赤紙ではないが、「義勇隊の諸君は、直ちに出頭せよ」の命令が来ます。寝耳に水で、国境地帯におりましたが、案外のほほんと生活しておりましたので、ソ連との戦争に行かされるのかと、動転したようです。訓練所の幹部の指揮で、徒歩で孫呉の部隊まで行くのです。
孫呉の師団司令部に行くと、現役の新兵さんと同じように、二等兵の肩書きで各陣地に配属されたようです。孫呉には、関東軍特別大演習の時は3万の関東軍がおりましたが、戦況が思わしくなく、南方の戦線や、沖縄などに精鋭部隊が転戦してゆき、戦争で使える精鋭は五千名となり、それに、ねこそぎ動員で、まったく訓練をうけていない中年でしかも、ろくな武器も、もっていない召集兵を含めて一万数千名でした。孫呉の花見山陣地に派遣された義勇隊員は、「もうソ連軍と戦う第一線ですから、戦わざるをえないのかと、覚悟を決める」
花見山陣地の兵士たちは、幼顔の、のこっているちっちゃい義勇隊員を「よく来てくれた」と喜び歓迎してくれたのです。陣地の兵士たちは、ソ連軍との戦いが激戦になり、死を覚悟しなければならない戦いになる。我々は戦争するためにこの陣地におるのですから死を恐れない、でも義勇隊の君たちは、満州開拓という使命をもってきている、
故郷に親兄弟がおるはずだ、ソ連軍が攻めて来たら、我々が戦うから君たちは塹壕に隠れていろ」
この陣地には、ソ連軍が攻めてくることなく、終戦となり、陣地の兵士たちとソ連軍の捕虜となり、ソ連に連行されるも、身体が小さく使い物になないと中国に送りかえされるが、身体の大きい隊員は、シベリヤに残されて、過酷な労働に絶え数年で日本に帰国する。
孫呉訓練所の約千名の義勇隊員は、ソ連との戦闘で犠牲になった方もおり、ソ連に連行された後、中国に帰された後に鶴岡炭鉱に強制残留させられ、私たちと一緒に坑内で石炭掘りをさせられ、昭和28年に日本に帰国した方もおりました。
十五、六歳で、ソ連軍との戦いに参加し、犠牲になった方は、どんな想いであの世に行ったのでしょうか、また両親の嘆きはさっするにあまりあります。
愚かで空しい戦争はどんなことがあっても許してなりません。