▼長井の観光地2014/09/09 10:33 (C) おもてなし!
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長井市草岡地区の長者屋敷遺跡で旧石器時代(17,000年前)の石器が出土し、縄文時代中期(約4,000年前)の集落跡が見つかり古代史も明らかになりつつあります。「長井」の地名の由来は、8〜9世紀に野川・白川が最上川に合流するあたりと野川・白川の作った扇状地に集落が発達し、そのあたり一帯を「長井」とよんだことにはじまり、長井の「井」は水の集まる所という意味です。
鎌倉時代には御家人の大江時広がこの地の地頭となって長井時広と名のり、当時は長井市周辺を「長井の庄」と呼んでいました。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏と領主が変わります。江戸時代には、海から遠く山に囲まれた場所にある米沢藩(現在の米沢市)では産出する米などの輸送手段が重要な課題になっていました。そこで1,692年、米沢藩の御用商人だった京都の西村久左衛門が、輸送費を安くするため藩内を流れる最上川での舟運を輸送手段にと米沢藩に川筋普請を願い、承諾されます。工事の責任者には久左衛門の手代である間兵衛が行ったものと思われています。
こうして通船が不可能だった白鷹町荒砥の下流にある「黒滝」と呼ばれた場所の開削に成功し、他の難所も開削され元禄7年(1,694年)に日本海の酒田までの船路が開けました。
米沢領内から最上川舟運が始まると、重要な輸出入物資の集積場となった“宮船場”をひかえた宮村(現在の長井市宮地区)と小出村(現在の長井市小出地区)は商人町として飛躍的に発展していきました。
時は過ぎ、明治4年(1,871年)の廃藩置県や明治11年(1,878年)の郡区町村編成などを経て、昭和29年11月15日に長井市が誕生して現在に至ります。
そんな長井市は1,991年に“美しい日本のむら景観百選”(長井市平野地区)、1,996年に“水の郷百選”に認定されました。