年号(西暦) |
年齢 |
事項 |
天文15年(1546) |
1 |
正月 最上義守の長男として生まれる。
幼名 白寿(光明寺由来記)/源五郎(寛政諸家譜) |
永禄3年(1560) |
15 |
正月 15歳で元服(光明寺由来記)
将軍足利義輝より「義」の字を賜り義光と名乗る(最上家譜)。※永禄元年説もある。
従五以下・右京大夫に叙任。 |
元亀2年(1571) |
26 |
父義守仏門に入り、義光 最上家の家督を継ぐ。 |
天正8年(1580) |
35 |
最上川の三難所を整備し、通船の便を図る。 |
天正9年(1581) |
36 |
鮭延城・庭月城を攻略。 |
天正12年(1584) |
39 |
谷地城主白鳥十郎長久を滅ぼす。
寒河江氏を滅ぼす。天童頼久を討つ。 |
天正14年(1586) |
41 |
山寺立石寺に土地を寄進する。 |
天正15年(1587) |
42 |
庄内に出陣し、大宝寺義興を討つ。 |
天正16年(1588) |
43 |
政宗の大崎(義隆)攻めに対し、大崎に援軍を送る。
最上と伊達の間が戦闘体制となったが、妹 義姫の尽力により和睦。
本庄繁長と庄内十五里ヶ原で戦い敗れる。 |
天正18年(1590) |
45 |
豊臣秀吉の小田原攻めに参陣する。5月 父 義守死去。
宇都宮城にて夫人とともに秀吉に謁する。
検地一揆平定と湯沢城の攻略。 |
天正19年(1591) |
46 |
従四位下侍従に叙任。
雄勝群(秋田)を加増される。 |
天正20年(1592) |
47 |
秀吉の朝鮮出兵のため、肥後名護屋に赴くが渡航はせずにすむ。
山形城築城中。 |
文禄2年(1593) |
48 |
6月 連歌の回を催す。 |
文禄3年(1594) |
49 |
狩野宗秀筆「一遍上人(遊行上人)絵巻」10巻を光明寺に寄進する。 |
文禄4年(1595) |
50 |
関白豊臣秀次は高野山に追放され自刃、駒姫を含む子女30余名が三条河原で処刑される。 |
慶長元年(1596) |
51 |
慶長の大地震(義光は家康を警護した) |
慶長2年(1597) |
52 |
8月 京都著名文人等と共に連歌の会を催す。 |
慶長5年(1600) |
55 |
正月 連歌の会を催す。
長谷堂合戦(上杉景勝の重臣直江兼続の軍勢と激突)
庄内に進出、大浦城・東禅寺城を陥れる。 |
慶長6年(1601) |
56 |
田川・櫛引・飽海の庄内3群を加増される。 |
慶長7年(1602) |
57 |
由利郡(秋田)を加増され表高57万石となる。 |
慶長8年(1603) |
58 |
長男義康が丸岡で暗殺される。山形常念寺に葬る。 |
慶長12年(1607) |
62 |
新関因幡守に因幡堰の開削を命じる。 |
慶長16年(1611) |
66 |
従四位上・左近衛権少将に叙任。北楯大学に北楯堰の開削を命じる。
庄内地域の検地を行う。 |
慶長18年(1613) |
68 |
病をおして江戸に上り秀忠に謁見し、その後駿府に赴き家康に謁して最上家を託す。 |
慶長19年(1614) |
69 |
正月18日 山形城にて死去(病死か)
光禅寺殿玉山白公大居士と号し、光禅寺に葬られる。
二男家親が家督を継ぐ。
2月6日 葬儀 家臣4名が殉死する。
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