▼見つけた「最上下向道記」上2006/12/23 10:20 (C) 最上義光歴史館
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片桐繁雄(上山市立図書館長)
斯波兼頼の山形入部650年記念イベントにかかわって、兼頼を開山と仰ぐ山形市の光明寺が秘蔵する文書の閲覧を許され、その折に驚くべき一巻の典籍に遭遇した。一花堂乗阿の紀行文「最上下向道記」である。
乗阿は僧であると同時に、桃山・江戸初期(1600年前後)に京都を中心に活躍し、「源氏物語」「伊勢物語」「古今和歌集」などの古典研究に寄与した学者として、国文学研究史では逸することのできない人物とされる。当時は歌人、連歌宗匠としても聞こえていた。
貞門俳諧の祖松永貞徳は、その著「載恩記」に乗阿との接触を記した。また、若き日の儒学者林羅山と論争したことも知られている。なかなかの学者、文人だったようだ。
山形城主最上義光は上洛中に乗阿から「源氏物語」の指導を受け、切紙(一種の免許状)まで授けられたとされ、これが機縁となって乗阿を光明寺住職として招請したのであった。これに応じて最上に下ったいきさつを書いたものが、「最上下向道記」である。
この度確認した写本は、元禄3(1690)年7月21日に、光明寺住職其阿量光が其阿自筆本によって書写した旨、奥書にある。
これまで国文学会では正式の題名は知られていなかったと見え、小高敏郎博士は「近世初期文壇の研究」では単に「道之記」としている。乗阿にそういう述作があることは別ルートから知られても、現在は所在不明だったからで、小高博士自身「探索中だが、目睹の機を得ない」と述べておられる。それが山形に実在したのである。
体裁は巻物、未表装。巻首に「最上下向道記」の内題がある。散文の間間に和歌、発句などをちりばめた伝統的な紀行文形態である。
本文冒頭は、乗阿73歳の慶長8(1603)年、義光の懇篤な勧誘で山形に赴く決心を固めたことから始まる。
旅支度を整え、友人知己と別れの連歌会を開き、梅雨前の5月12日(太陽暦6月21日)に京都を発つ。琵琶湖を舟で北上し、敦賀からは「舟に乗り、山路に移り、ここかしこの旅寝重ねて」金沢に着く。越中中田(富山県高岡市)近くでは落馬して腰を痛め、以後は馬をやめて駕籠にする。直江津(新潟県上越市)では有名文人到来ということで連歌会が催される。怪我が治っていない乗阿は、脇息につかまりながら指導をする。道中の宿々では高名な乗阿と知って、しきりに発句をせがむ。乗阿は、所がらにふさわしい句を作って、亭主に与えたりもする。こうして旅を続け、越後本庄(同県村上市)を経て、出羽に入る。
「羽州庄内、今あらため鶴岡というに到れば、御城の普請の奉行衆とて両三人、今行くべき先々の道のことまで沙汰せらる」
「亀ヶ崎」(酒田市)「鶴ヶ岡」(鶴岡市)と名が改められたのは同年3月だから、乗阿が通ったのは地名が変わって間もないときだった。一泊して、翌日は最上川をさかのぼる舟に乗る。舟を降りた所は、寺津(天童市)か船町(山形市)であろう。はるばると旅して、ほどなく山形に着くわけだが、さて、乗阿は山形をどう見ただろうか。(下に続く)
<2006/11/16 山形新聞夕刊掲載>