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▼「勝つ」ということ

 無学会会長 工藤亮介

 最近あるところで、試合で勝つための方法を子供達に教えて欲しいと言われ、即座に小学生の子供達に言ったことは、「自分は試合で勝つ方法(テクニック)は知らないから教えられない、ただ試合でよく勝つ子供の稽古は知っている」そしていつも大きな声を出す、全力でぶつかってくる、自分から積極的に懸かるなど、これまで自分が関わってきた子供の中で印象深い子供たちに共通の特長的なことを話した。
 剣道の試合で「勝つ」という事象を皮相的に捉えるならば、「審判という第三者の有効打突と判断する回数が、一定時間内あるいはその延長において、相手より先に定められた回数に達すること」となろう。確かにこれは真実であるがあくまでも試合という場を円滑に運営するための便法、取り決めである。
 本来、剣道は彼我二人だけの精神、肉体および技術のすべてをぶっつけある闘いであり、時間の制約や第三者が入り込む余地は全くない。「負け」は負けた本人が一番分かっている。「勝ち」が分かるときもあるが往々にしてなぜ勝ったか分からないときがある。(これは相手が分かるはず)よく言われる「勝ちに不思議あり、負けに不思議なし」である。そして本当の勝ちとは、精神、肉体、技術の総合力において相手を圧倒することであると思う。
 一方稽古などでは、自分が打たれたのは自分の欠点を指摘されたとして感謝、自分の打突を相手が認めても本当に十分だったのかを確かめ、反省が有ればその人の剣道は「品格」の高いものになるだろう。「打って反省、打たれて感謝」である。
 いいところを打たれたら「参りました」、十分でない自分の技に相手が参ったと言っても「まだまだ」と謙譲を示すことも大事か。これが逆だったら、こんな相手とはもう二度としたくないと思うこと必定である。
 ところで、「試合の勝ち」と「本当の勝ち」を自分なりに論じたが、相通ずる最終のものは無心、無我だと考えている。つまり、精神、肉体、技術が拮抗するもの同士の対峙で結果的にことを制するのがこれでないかと思う。
 例えば三時間立ち切り稽古の終盤、基立のハッと観る者を捉える無心の技、あれである。これは簡単に身につかない。普段の稽古がどれだけ厳しいか、それにどれだけ耐えるかが問われる。言い換えればそういう場に如何に自分をおくことができるか、つまるところ「如何に自分に勝つか」に帰着する。深遠な課題である。
 県制覇の連続記録を更新し続ける左沢女子は、本質的には選手が自らの意思で県内のどの高校よりも厳しい稽古に身をおいているのだと思う。
 本当の勝ちとは、精神、肉体、技術の総合力で相手を圧倒することと言ったが、自分の年代ではこれに人格なるものが加わるように思える。面を着けたときはもとより、そうでない時でも相手の「格」のようなものに押される感じを受ける場合がある。
 剣道の理念「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」に辿り着くのであろうか。これこそが極めて幽遠な生涯をかけての目標であり、「究極の勝ち」につながるものであると思いたい。
 これの草稿後「ねんりんぴっく」に、県代表として初めての先鋒で出場する機会があった。結果は甚だ不満足なもので、それは思索と実行為との違い、己の未熟さを改めて思い知るに十分すぎるものであった。そのなかで、曳かれるものの小唄ではないが思索だけでも持ち続けることはそうでないよりも救われるのではないかと、自分を納得させている次第である。
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