▼最上家をめぐる人々#2 【光姫/ひかりひめ】2008/01/31 12:07 (C) 最上義光歴史館
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「お金万貫、米万石、それに美人の女房をお与えください。」
こんなぜいたくな願いを観音様からかなえてもらった男の話が『日本霊異記』という古い本にある。
33に姿を変えて人々の願いをかなえてくれるという信仰から、いわゆる「三十三観音」はスタートしたらしいが、最上札所の起こりについては、確実なことはわかっていない。
応永(1400年前後)のころ、山形の殿様最上頼宗に“光姫”という美しい姫君がいた。姫は自分のために二人の男が争って命を失ったのを悲しみ、乳母とともに尼となり、観音巡礼の旅に出た……これが「最上三十三観音」の始まりだという伝説がある。だが、これは史実ではないようだ。
江戸時代に「お札打ち」が盛んになってから、時代をさかのぼらせ、最上家の架空のお姫さま“光姫”が創作されたものらしい。
最上時代をなつかしむ山形の人々の心が、こうした伝説を生み出したのであろう。
札所の範囲は、南は上山から北は最上郡まで、天正末期(1590年ころ)から慶長初期(1600年ころ)の最上氏の領地とほぼ一致しており、33箇所がセットになったのは、およそその時代と考えていいのではあるまいか。
全国各地に成立した「三十三観音」のなかでも、最上札所は、鎌倉時代に近畿地方に成立した「西国」には及ばないものの、比較的早い時代にできたものとされており、「坂東」「秩父」と並んで、昔から多くの巡礼がおとずれたところだ。
慶長8年、最上義光は千手堂の観音さまに、年老いた母のために御詠歌の額を奉納した。
「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」
これにはなぜか「第一番」と書かれているが、順番はまたあとで変わったりしたこともあったのだろう。
現在は第1番は天童市の若松。ここからはじまって、打ちとめは33番の鮭川村庭月、
これに番外として最上町の向町観音を加えて34箇所。
山ふところや丘のうえ、あるいは川のほとりや集落の木立のなかに、遠いむかしから人々の信仰を集めて、観音さまのお堂はひっそりと建っている。
中には山形地方を代表する古い建造物として、重要文化財に指定されているのもある。巡礼が貼りつけた無数のお札は、信仰の広さ篤さを物語る。お堂の中には、ご本尊の観音像がまつられ、板壁には絵馬や俳諧の額などがかかげられているのを見ることもできる。
ちなみに、山形市内だけでも、山寺・千手堂・円応寺・唐松・平清水・岩波・六椹・松尾山長谷堂と、九箇所の札所があって、春や秋の良い季節になると、昔に変わらず「お札打ちさん」が訪れている。
“光姫”は、千歳山の“あこや姫”とともに、山形のひとびとが作り上げた美しいロマンのヒロインといってよいだろう。
■■片桐繁雄著